最北の富士塚を探せ!――富士講はどこまで広まったのか?

【特集】最北の富士塚を探せ!――富士講はどこまで広まったのか?
くろこじ
自分自身の経験、知識、思考を書きつづり、それがあなたのお役に立てば幸甚の至り――という気持ちで書いています。

ここに公開している著作は、1999年に、ぼくが一時期通っていたフリーライター養成講座の修了制作として書いた作品です。誤りや説明不足の点などが少なくないかもしれませんが、自分の過去の記録として、また、思慮の浅さはあるものの、若い好奇心や行動力が見て取れる表現をそのままに残しておきたいという想いから、当時の文章のまま掲載しています。

目次

東京に富士山?

 突然だが、大都会・東京に富士山があるのをご存じだろうか? しかも、いくつもだ。「そんなバカな。銭湯に描いてある富士山のことでしょ?」と思われる方もおられるだろうが、これが本当なのだ。といっても、もちろん本物の富士山ではない。特に江戸時代以来、富士山を信仰する人々が築いたミニチュアの富士山、「富士塚」である。
 品川から京浜急行の各駅停車に乗って2つ目、新馬場(しんばんば)という駅の北北西に、都内ではよく整備された富士塚がある。その名も「品川富士」という。
 私がこの富士塚に行ったのは、夏の日差しが燦々と照りつける、7月末のある昼下がりの午後だった。夏にしては秋のように青く澄んだ空で、雲一つなかったが、じっとしていても汗ばむくらい蒸し暑かった。
 国道15号線、いわゆる第一京浜を駅前から200メートルばかり北に歩くと、左手に品川神社の大きな鳥居がある。その鳥居をくぐり、60段はあるかと思われる、長く急な階段を登っていく。幅は4メートルほどだ。鬱蒼とした木立ちに覆われ日陰にはなっていたが、すぐに全身からどっと汗が噴き出し、息が上がってしまった。
 この階段をちょうど半分登った左側に、高さ3メートルほどの鳥居がある。その向こうには、また別の階段が延びていて、ほぼ5段おきに、「一合目」「二合目」……と刻まれた小さな石標が立っている。そう、ここはもう「富士山」なのだ。
「五合目」まで登ると、周囲の木や植え込みが途切れ、右手にごつごつとした黒い岩山が現れた。岩山には、人ひとりがやっと通れるくらいの階段がくねくねと延びている。まるで登山道のようだ。階段に沿って渡してある鎖を伝いながら急な勾配を登っていくと、直径5メートルぐらいの円形の広場に出た。頂上だ。
 そこには、20歳前後の若い女性が一人しゃがんで、おそらく友だち相手に、携帯電話でおしゃべりしていた。
「ここさあ、すごく景色がよくて、気持ちいいんだ」
 西側は林になっていてやや見とおしが悪いが、東側は天王洲に林立するビルやレインボーブリッジが一望できた。眼下には、京浜急行の高架線や、第一京浜を往来する車がよく見える。暑ささえがまんすれば、彼女が言うとおり、そこは眺めも風とおしもよい、のんびりするには絶好の場所だった。
 だが、ここは本来、いたって神聖な場所である。塚の裏手にある立て札には、こう記されている。
「富士塚は、富士信仰の集団、富士講の人々が、富士山の遥拝場所として、あるいは実際の登山に代わる山として造った築山〔つきやま〕である」
 この日はあいにく富士山は見えなかったが、この品川富士では、毎年7月1日の富士山開きの日に、講員一同が白装束で境内の浅間社にお参りし、裸足で塚に登り、富士山を遥拝する。テレビのニュースで観た人も多いはずだ。
 しかし、東京で今でもこうした行事を行なっている富士講は、ここ以外にはほとんどない。第二次大戦の空襲で古くからの住民の多くがいなくなり、その影響で富士講も激減したからだ。
 だが、富士講は衰退しても、ミニチュアの富士山である富士塚は今でも数多く残っている。そしてそうした富士塚は、かつてその地で富士講が活動していたことを如実に物語っているのだ。

富士塚にまつわる謎

 私が富士塚という名前をはじめて知ったのは、実はつい最近のこと〔執筆当時〕である。ある雑誌に、東京23区内で山登りをするという記事があって、そこに富士塚のことが取り上げられていたのだ。
 そのとき、私のなかに、富士塚への興味がわきおこった。なぜかと言えば、自分でもはっきりとした確信は持てないのだが、たぶん、わざわざ大がかりな土木工事を行なって、富士山のミニチュアをつくるという強い信仰心にロマンを感じたからだろう。いや、それよりも、ミニチュアや模型が大好きな私の嗜好によるところのほうが大きいかもしれない。以前、日光の東武ワールドスクエアに行って、25分の1のスケールで精巧につくられた法隆寺やタージマハールなどを見たときの興奮とまったく同じものを感じたからだ。
 とにかく私は富士塚について知りたいと思い、手始めに、インターネットのサーチエンジンで「富士塚」と入力し、この言葉を含むサイトを検索してみた。すると、あるわあるわ。130件あまりもヒットしたではないか。
 画面をスクロールしていくと、「富士信仰の遺構《富士塚》」というページタイトルを発見した。すぐに、そのページにアクセスする。
 ここに記載されていたのは、東京と千葉の富士塚の詳細な所在リストだった。何という富士塚が何区、あるいは何市の何町何番の何神社にあるかということが、実にくわしく記されていた。おまけに東京都内のものは、所在地の地図までついている。
〈今はほんとに便利になったよなぁ〉
 私が大学院生だった6年前〔1993年ごろ〕は、まだインターネットなど普及しておらず、この程度のことを調べるにも、図書館に行かなければならなかった。それが今や、自宅にいながらにして簡単に調べられるのだ。
 このサイトには、富士山の可視エリアと富士塚の分布を合成させた地図も載っていた。それを見ると、2つがみごとに一致しているのがわかった。富士塚には富士山の遥拝所としての役割があるからだ。
 しかし、ここで妙なことに気がついた。富士塚の分布は富士山の見える範囲と密接な関連があると書いてあって、群馬、栃木、茨城、さらにはそれより北から富士山を望める場所もあるのに、北関東以北に富士塚の存在を示すしるしがついていないのだ。そしてよく見ると、「茨城、栃木、群馬は現在も調査中」と記してあった。つまり、北関東以北の富士塚については、よくわかっていないのだ。このページの制作者に問い合わせのメールを送ってみたが、もうそのアドレスはないらしく、送信できなかった。
〈いったい富士塚は、北はどこまで築かれたのだろう?〉
 私の中に、ふつふつと強い疑問が湧きあがってきた。
〈いちばん北の富士塚がどこか、調べてみよう〉
 こうして、私の「最北の富士塚探し」は始まったのである。

最北の富士塚はどこにあるのか?

 次の休日、私は自宅近くの図書館と国会図書館へと足を運んだ。そして、富士塚や富士講について書いてある本を探し、それらに目を通していった。
 江戸で最初の富士塚は、高田馬場に住む植木職人・藤四郎が築いた「高田富士」だとされている。彼は、食行身禄(じきぎょうみろく)を教祖とし、富士山を神仏としてあがめ、勤勉・親孝行・相互扶助の大切さを説く富士講の先達(リーダー)だった。そして、富士山を遥拝するためだけではなく、信仰心に篤くても本物の富士山には登れない女性や病人、体力のない人にもその雰囲気を味わってもらいたいがために富士塚を築いたという。そのため富士塚の多くは、富士山の溶岩を積み上げ、頂上に浅間神社の祠(ほこら)を立てるなど、本物の富士山をまねてつくられている。
 この富士塚はその後、富士講の広まりとともに埼玉、千葉、神奈川にも築かれていったと、どの本にも書かれてあった。その数は、すでに現存しないものまで含めると、都内だけで50基以上、上記3県を合わせると150基にも上るという。大きさは、地域によってまちまちで、高さ1メートル程度のものから、10メートルを超えるものまでさまざまである。
 それでは富士塚は、北はどこまで築かれたかと思って期待して見てみると、せいぜい埼玉県の美里までであった。美里とは、関越自動車道の本庄児玉インターの南南西に位置する町である。東京・日本橋の北西、約80キロの位置だ。
 どの本も、都内の富士塚についてはやたら詳しく書いてあるのに、北関東以北となると、その地域のことについてはまるで興味がないかのように、何の記述も見当たらなかった。
〈インターネットで調べた時は、群馬や栃木にもあるように書いてあったけど、ほんとにあるのかなあ?〉
 私は、かすかに不安になってきた。しかし次の瞬間、その不安は大きな期待へと変わった。『富士浅間信仰』(雄山閣出版)という本の中に、次のような記述を見つけたからだ。

 文化庁で編した『日本民俗地図』Ⅲ(昭四七刊)の「講」の部によると、関東六県と富士山麓を除いて、岩手・福島・新潟・三重・滋賀・大阪・奈良に富士講または浅間講の記事が見られる。

「岩手、福島、新潟!」
 私は思わず、こう声を上げそうになった。これは、かなり北だ。もしこれらの地域のどこかに富士塚があったとしたら、北関東どころの話ではない。
 しかし、気になることもあった。この3県からは、たとえ高い山に登ったとしても、富士山が見えるところがほとんどないことだ。特に岩手は皆無である。富士講の人々は、富士塚築造の重要な要件の一つを欠く地域に、はたして塚を築いたのだろうか?
 だが、私の心は決まっていた。
〈ここを中心に調べてみよう〉
 次の日から私は、この3県に宮城、山形、北関東三県を加え、より北に位置する地域から、富士塚と富士講の分布について現地に問い合わせていった。

東北地方に富士塚はあるか?

 私がまず問い合わせたのは、東北各県の公共機関だった。岩手県立博物館、山形県立博物館、宮城の東北歴史博物館、福島県立博物館、それに各県庁や教育庁の文化財保護課(係)で歴史民俗を担当している係官に電話で問い合わせたのである。
 しかし、これが思ったより難作業だった。
 電話をすると、たいていは、まず受付の女性が出る。こちらの要件を伝えると、こころよく取り次いでくれるのだが、そのあとの時間がかかった。とにかく東京にくらべ、やたらのんびりしているのだ。受付の女性が「少々お待ちください」と言ったあと、電話を保留にしたときに鳴る、軽快な電子音のメロディーが延々と続くこともあった。しかも、やっとつながったかと思うと、担当者が不在だからかけなおしてくれと言われることも多かった。
 担当の係官とじかに話をすることができたときは、とても親切に応対してくれた。東京であわただしい生活を送っている私のような人間には、なにかなつかしく感じられる親切さだった。しかし、富士塚や富士講についてはあまり聞いたことがないらしく、手持ちの資料をめくりながら調べてくれるのに、これまたかなりの時間がかかった。結局、岩手から福島までの問い合わせだけで10日もかかってしまった。
 しかし、収穫もあった。福島県文化センター歴史資料課の係官が、福島県内に富士塚があるという話を聞いたことがあるというのだ。その話を彼にしてくれた人は、県内に富士塚があるのは珍しいと言っていたという。
 ところがその係官は、富士塚の所在地はおろか、その話をどこの誰から聞いたのかもすっかり忘れてしまったらしい。「ずいぶん前のことですからねえ……」と、彼は恐縮した。声から想像すると、人のいいおじさんといった感じだ。しかし、おぼえていないものは仕方がない。私は彼に丁重にお礼を言い、電話を切った。
 ずいぶん漠然とした情報だったが、収穫にはちがいなかった。しかしその一方で、こうしたやり方では効率が悪いと思いはじめていた。先方は歴史民俗の専門家ではあっても、富士塚や富士講の専門家ではない。だから、時間と費用がかかるわりには、有益な情報をなかなか得られないのだ。
 では、誰に訊けばいいか? 富士講そのものは数がかなり少なく、お互い横のつながりがほとんどないので期待できなかった。だが、富士講に接している人や富士講の専門家なら、何か知っているかもしれない。
 富士講が富士登拝する際の玄関口は、富士山の北麓に位置する富士吉田である。講員たちは、日ごろ自分たちに代わって富士の神に祈りをささげてくれている、御師(おし)と呼ばれる布教者の家へ泊り、北口本宮冨士浅間神社に参拝したあと、その裏手から続く登山道を通って、頂上の内院(噴火口)をめざすのだ。
 とすれば、御師と呼ばれる人たちや浅間神社にたずねてみれば、何かわかるかもしれない。それに富士吉田には、富士信仰を紹介、研究している歴史民俗博物館もある。
〈なんで始めから気がつかなかったんだろう?〉
 私は自分の愚鈍さに苦笑しながら、富士吉田行きを決めた。

富士塚には2種類ある?

 富士吉田市は、東京から中央高速道で約1時間半、山梨県南東部の、標高700~800メートルに位置する地方都市だ。ちょうど河口湖と山中湖の間に広がっている。
 私が行った日は雨こそふらなかったが、天気が悪く、晴れた日なら目の前に雄大な姿を現すはずの富士山は、まったく見えなかった。
 私はまず、富士吉田市歴史民俗博物館へ向かった。市の南東部、御殿場へ通じる国道138号沿いにある、うすいレンガ色の2階建ての建物で、周囲は赤松の林になっていた。
 館内には「富士山の信仰」という展示コーナーがあり、そこに白装束の行者のマネキンや祭具、御師の町並みのジオラマなどが並べられていた。しかし、富士塚や富士講の分布についての解説は見当たらなかった。そこで私は、受付の女性に頼んで、学芸員の人を呼んでもらった。
 その学芸員は、40代後半ぐらいの、白のポロシャツがよく似合う、肌の浅黒い男性だった。背丈は173センチある私よりも少し低かったが、体格はがっしりしていた。
 ここにやってきたわけを話すと、彼は、富士塚と富士講の分布についてはわからないとしながらも、およそ次のようなことを教えてくれた――
〝ひと口に富士信仰と言っても、室町時代からの古い信仰と、江戸時代に江戸を中心にはやった富士講の2つの流れに分けられる。富士塚はふつう、富士講の人たちによって築かれたものを指すが、古い信仰の流れに属する人たちが築いた塚もある。つまり、富士塚には2つのタイプがあるのではないか〟
 私はその話を聞いて、しばらく考えてしまった。富士塚に2種類あるとは考えてもいなかったからだ。富士塚と言えば、富士講の人びとが築いたものしかないと思っていた。しかし、話はそう単純ではないらしい。
 富士講が広まった地域は、富士山が望見できるエリアとほぼ一致している。とすれば、福島の富士塚の話は、古いほうの信仰によるものなのだろうか? いや、そんなことはない。本には確かに、東北にも富士講は広まったと書いてあったではないか。
 しかし、何の資料を持ちあわせていないのに、ここであれこれ考えても仕方がなかった。この疑問は帰ってから調べることにし、私は次の目的地である北口本宮冨士浅間神社へ向かった。

新潟・長岡に富士講があった!

 この神社は、国道を車で5分ほど市内へ向けて戻ったところにあった。樹齢数百年はありそうな背の高い杉に囲まれ、歴史ある由緒正しい神社という雰囲気を強く漂わせていた。しかし、休日だというのに、参拝客は数えるほどしかいなかった。
 私は、この神社に長く奉職していそうな神官を呼びとめ、声をかけてみた。
「この神社は富士登拝する富士講の人たちが必ず参拝に立ち寄られるそうですが、いったい北はどのあたりから来られるんでしょう?」
「多くは東京や千葉からですが、北と言えばせいぜい茨城あたりですね」
 白い羽織に水色の袴(はかま)を身につけたその神官は、記憶をたどるように視線を少し上に上げながら、そう答えてくれた。よく見ると、日本共産党の志位和夫書記局長に似ている。髪型も目つきも、かけている眼鏡もそっくりだ。
「参拝に訪れる富士講の数は、今どれくらいあるんでしょうか?」
「15ぐらいだと思います。人数は合わせて300人か400人といったところでしょうか」
「その方たちは、今も御師のところに泊まるのですか?」
「今はバスで日帰りというのも多いようです。御師をやってらっしゃる家はずいぶん減って、もう数軒ほどです」
 私は、これ以上聞いても何の収穫もないかな、と思いはじめていた。しかし次の瞬間、彼の口から驚くべき言葉が飛び出した。
「そういえば、明治や大正には新潟からも来ていたようです。長岡に以前、富士講があったという話を聞いたことがあります」
 実は私は、この富士吉田に来る前、『新潟県の地名』(平凡社)という本のなかに、長岡に富士塚があったという記述を見つけていたのだ――

 真宗大谷派万休寺は……かつて同寺境内続きに「富士権現」と刻字した石碑を建てた古塚があり、富士塚の称があったが、文政(1818~30)頃に紛失し、その後はそれを模写した石碑が建てられた。

 ところが、万休寺に電話で問い合わせてみると、そのような伝承は聞いたことがないし、石碑もないという。
 では、この記述はまったくの誤りなのだろうか? 私には、そうは思えなかった。それは、この記述が確信をもって断定されているように読めたし、『富士浅間信仰』のなかに新潟にも富士講が存在したと書いてあったからだ。
 浅間神社の神官の言葉は、そうした私のもやもやした気持ちをいっきに振り払ってくれた。
〈長岡に富士講があったとすれば、富士塚が築かれた可能性も高くなる。もし万休寺の富士塚の件が誤りだったとしても、きっとどこか他の場所に築かれたはずだ〉
 となれば、次にやるべきは、長岡に富士塚と富士講があったかどうかを調べることだ。私は、目の前にぱっと道が開けたように感じた。

富士塚と「模造富士」

 富士吉田へ行った次の日、私は、前の日に立ち寄ることができなかった御師の家へ何軒か電話をしてみた。また、富士講の系譜を引く、丸山教や扶桑教、実行教といった教団にも問い合わせてみた。しかし、東北や新潟の富士講についての情報は、まったく得ることができなかった。
 やはりとるべき道は、長岡への問い合わせだ。これで収穫がなければ、あの広い福島県のなかから小さな富士塚を探し出すという、大変な作業をしなければならない。
 しかし、長岡へ問い合わせる前に、私は学芸員から教わった富士信仰と富士塚の2つの流れについて、もう一度資料を読みなおしてみた。
 実は富士講の源流は、正確に言うと、食行身禄ではなく、室町時代末期を生きた長谷川(藤原)角行(かくぎょう)にあった。身禄にいたるまでの講は弱小で、とても組織と呼べるようなものではなかった。ところが、身禄が入定(にゅうじょう:宗教的自殺)すると、江戸に信者が急増し、彼の弟子たちがその信者を新たに講としてまとめ、従来の講からいくつも独立していった。これが俗に「富士講」と言われるものである。だが実際は、身禄以前の講も富士講と言われることがあるのだ。研究者によっては、これを「富士行」と呼んで区別する者もいる。
 次に富士塚であるが、小さな山や丘の上に浅間大神をまつって「富士塚」と呼ぶ習俗は、古く鎌倉時代からあった。しかし、こちらの富士塚は、加工をしても土を盛り上げたり、周囲を切り崩したりする程度で、登拝はせずに全体を拝むものであったらしい。この点で、身禄以降の富士講による富士塚とは大いに異なっている。塚についても、藤四郎以降の富士塚を「模造富士」「人造富士」と呼んで、区別する研究者がいる。
 つまり、富士塚も富士講も、用語の使い方が不統一なのだ。実はこのことは、富士信仰の研究者には周知の事実なのだが、そそっかしい私は、それを見落とし、そのために混乱してしまったのだ。
〈それにしても長岡の富士講は、はたして身禄の系譜を引くものなのだろうか? 長岡に富士塚があるとすれば、それは「模造富士」なのだろうか?〉
 私は、早くそれが知りたくてたまらなかった。

長岡に富士塚を発見!

 長岡への問い合わせは、すぐに手がかりをつかむことができた。長岡市立科学博物館の学芸員が、こう教えてくれたのだ――
「市内の濁沢(にごりさわ)に富士塚古墳というのならありますが」
 私はその言葉を聞いて、とても興奮した。富士塚のなかには、古墳として扱われているものもあるからだ。
 しかしその学芸員は、古墳と富士講との関連についてはわからないと言い、長岡の歴史民俗に詳しい専門家の連絡先を教えてくれた。
 その専門家は、あるお寺の住職らしい。私はさっそく、彼に問い合わせの手紙を送った。
 それから一週間後、仕事から帰ると、私宛ての郵便物が届いていた。B5より少し大きめの茶封筒だ。裏を見ると、住職の名前が記されていた。
 私は急いで封をあけた。なかには、手紙と、『越後長岡濁沢老翁古事談』(長岡市立科学博物館研究報告第一七号)という小冊子が入っていた。さっそく手紙を開くと、およそ次のようなことがしたためてあった。
〝まず、万休寺の富士塚だが、『新潟県の地名』にこのことを書いたのは自分である。ただし、この記述は、明治20年代の『温古の栞』という雑誌の報告に基づくもので、これ以上詳しいことは自分にもわからない〟
〝次に、濁沢の富士塚だが、これは今も存在している。この塚は妙龍神社の裏手にあり、濁沢出身の小幡助左衛門という人が江戸の下谷より帰ってきて築いたものである。しかし、少なくとも今は、富士講はもとより、富士塚の祭りなどは行なわれていない〟
 濁沢の富士塚の話は、同封の小冊子に記載されている、現地の古老の談話に基づくものだった。見ると、インタビューアは住職本人だった。
 助左衛門がいた下谷(台東区)は、もっとも富士講が盛んだった地域の1つである。そこには、国の重要有形民俗文化財に指定されている富士塚が現存している。
 濁沢に富士塚を築いた助左衛門は、身禄を祖とする富士講の信者だったにちがいない。だとすれば、その塚は「模造富士」なのだろうか?
〈その塚を早く見てみたい!〉
 私の心はすでに、長岡へと飛んでいた。

長岡の富士塚と対面する

 5日後、私は車で長岡へと向かった。練馬インターから関越自動車道に入り、時速100キロで走った。
 朝の8時半に自宅を出発し、途中昼食をとって濁沢に着いたのが、昼の2時前だった。道中、特に渋滞したわけでもないのに、これだけ時間がかかるのである。ずいぶん遠いな、というのが実感であった。
『越後長岡濁沢老翁古事談』の古老の話では、助左衛門は富士山から岩や土砂を運んできて、富士塚を築いたという。自動車などない時代に、いったいどれだけの時間と労力がかかったのだろう? それを思うと、彼の信仰心の並々ならぬ強さがうかがえた。
 妙龍神社は、長岡市南東部の山あいにあった。くねくねと流れる太田川に沿って狭い県道が走っているのだが、「弁天」というバス停がある、道が大きくカーブするところに、その神社の赤い鳥居が立っている。
 神社は山の上にあり、幅1メートルくらいの狭く急な階段が、上のほうへ延びている。品川神社の階段よりも急だ。周囲は木々に囲まれ、かなり鬱蒼としていた。
 60段は登っただろうか、息を切らしながら頂上にたどりついた。全身汗まみれだ。
 神社は、鬱蒼とした小高い山の上に、木造の小さな古い社殿がぽつんと一つ立っているだけだった。戸はぴっちりと閉ざされており、賽銭箱もない。掃除はされている感じだったが、誰も参拝に来る人はなさそうな雰囲気だった。
 裏手にまわってみた。いよいよ富士塚とご対面だ。心臓の鼓動が高鳴ってくるのが感じられた。
 裏手には、高さ2メートルくらいの、こんもりとした小山があった。一面、雑草や木でおおわれていたが、ところどころに岩が露出しているのが見える。富士塚だと知らなければ、たんなる自然の小山にしか見えなかった。
 私はその小山に登ってみた。雑草や木の葉が顔や体に当たり、気持ち悪い。住職の手紙によれば、この塚の反対側に「富士大権現」と刻まれた石塔があるはずだ。
 しかし、反対側はちょっとした崖になっており、下りることはできなかった。目をこらして見てみたが、雑草や木で視界が悪く、石塔の存在は確認できなかった。
 この富士塚が「模造富士」かどうかはわからなかった。かなり荒れ果てていて、原型をとどめておらず、登拝するような構造になっているかどうか判別できなかったからだ。ここから富士山は見えないはずだから、少なくとも遥拝所として建てられたのではないだろう。しかし、助左衛門はその昔、ここではるか遠くの富士を熱心におがんでいたという。それを思うと、彼の息吹が時を超えて感じられるような気がした。
 このあと、万休寺に行ってみた。濁沢から車で約20~30分北西に行ったところで、周囲には商店や住宅が多く立ち並んでいた。
 寺は大きく立派で、境内はかなり広かった。きれいに刈りこまれた木があちこちに植えられ、広い墓地もあった。すぐ裏手には、JR上越線が走っている。わりと最近、建物も庭もつくりなおしたようだ。
 境内のあちこちを見てまわったが、富士塚のことを記した石碑はやはりなかった。江戸時代のような昔の記憶など、もうここには残っていないという感じだった。

新たなる始まり

 富士塚を求めてはるばる長岡にやってきたにもかかわらず、めざす塚と対面しても、私には不思議と大きな感動はなかった。なぜなら、これが最北の富士塚であるとは決して断言できないからだ。
 地図で見ると、長岡は北緯約37度27分で、福島県の郡山や双葉とほぼ同緯度である。これは福島県をちょうど南北に二分する緯度だ。ということは、福島県文化センターの係官が聞いたという富士塚が長岡の塚よりも北にある可能性があるのだ。それに、富士講(厳密には「富士行」)は岩手まで広まったというから、福島以北に塚がある可能性も捨てられない。
 また、これとは別に、私のなかには「模造富士」の北限はどこかという疑問もわいてきた。そしてこの疑問こそ、今になってやっとわかったことだが、私が最初に追い求めようとしたテーマだったのだ。
 私の「最北の富士塚探し」は、始まりを迎えたばかりだったのである。

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