書いてるのは、どんな人?
ハンドルネーム:くろこじ
生まれた年:1965年(昭和40年、巳年)
出身地:東京都武蔵野市、育ったのは神奈川県川崎市
現在の住まい:山梨県北杜市
家族:妻(1人息子がいるが、社会人で独立している)
出身大学と大学院:JR目白駅横にキャンパスの入口がある大学(法学部)と、お坊さんの学生が多い西巣鴨にある仏教系大学の大学院(宗教学専攻博士前期課程)
趣味:(いたって平凡だが)読書、仏像めぐり、食べ歩き、人間観察、人を笑わせること
好きな学問の分野:哲学・倫理学
好きな著者:南直哉(僧侶)、井上達夫(法哲学者)
好きな仏像:迦楼羅、不動明王、馬頭観音(忿怒像が大好き)
好きな寺院:東寺、三十三間堂
好きな食べ物:パスタ、パエリア、寿司、旭川ラーメン
好きなレストラン:蓼科リストランテ イルポルト、ブラッチェリーア・ロトンド小淵沢
好きな芸人:タモリ、ローワン・アトキンソン
好きなサッカーチーム:川崎フロンターレ
好きな動物:コツメカワウソ、ジェンツーペンギン
好きなミュージシャン:AAA、QUEEN
好きな映画:ボーン・アイデンティティ(など諜報機関が暗躍する映画)
運営サイト:kurokoji.com(このサイト)、蓼科・小淵沢・清里でおとなのランチ
出生~大学生
幼稚園から高校までは、神奈川県横浜市にある、とある学園に通学。
エスカレーター式で進学するという〝ぬるま湯〟のなかで育ちました。
成績は、英語と国語は〝そこそこ〟でしたが、好きな社会科の科目だけは決して手を抜かず、高校時代は常にクラスや学年でトップクラスの成績をとっていました “σ( ̄^ ̄;) えっへん
なかでも得意だったのが日本史で、この科目のおかげで大学に合格することができたと言っても過言ではありません。
逆に、関心がない数学と理科はいっさい勉強しませんでした。
おかげで、高校の定期試験では、この2教科は常に赤点すれすれでした。
大学では演劇に没頭……と言うと聞こえはいいですが、本当のところは、学業に対しては無気力で、授業にまともに出席しなかったため、他にやることもなく、また、演劇サークルには女子が多かったので、自然とサークルに顔を出す環境にありました。
このサークルが上演していたのは、モリエールなどのフランスの劇作家が創作した喜劇で、学年が進むごとに、主役や演出をやることとなりました。
しかし、サークル活動に強い義務感を感じ、心を病んだため、3年次の途中で退部しました。
その一方で、人を笑わせることに快感を覚え、その快感をずっと追求しつづけた結果、今では人を笑わせることが趣味化しました。
ただし、実際におもしろいことを言えているかどうかはわかりません(汗)
ちなみに、当時の心の病の正体は、今にして思えば、不安神経症だったようです。
混んだ電車に乗ると、心臓がドキドキしてきて気分が異様に悪くなり、血の気が引いて乗っていられなくなったため(軽いパニック障害?)、電車に乗るのが怖くなり、一時期、大学へ通えなくなるほどでした。
大学院生
大学卒業後、まったく別の大学の経理職員として1年ちょい過ごしたあと、真面目に勉強したくなり、大学院へ入学しました。
専攻は宗教学。
研究対象は日本の新宗教でした。
この大学院の宗教学専攻には当時、西洋哲学のコースも併設されていて、両方の講義を聴講することができました。
そのおかげで、博士前期課程(修士課程)の2年間だけしか籍を置きませんでしたが、宗教思想と哲学の〝基礎の基礎〟程度は身につけられたと思います。
修士論文では、ある新宗教の教えの成立過程を、海外思想の受容を切り口にして論じました。
400字詰め原稿用紙350枚ほどのボリュームになったので、口頭試問のとき、指導教授から執筆の熱意を褒められました。
しかし、内容については「何を言っているのかわからない」と苦言を呈されました(汗)
その約20年後、自分の修論を読み返してみましたが、あまりに稚拙で底が浅い内容に強いショックを受け、思わず焚書にするところでした。
ただし、長大な論文を1本書き上げたことで、中学生まで原稿用紙1枚書くのも苦労していたのに、書くことそのものがあまり苦にならなくなったのは収穫でした。
書籍編集者
書籍編集者の仕事とは?
大学院を修了すると、結婚と同時に、某人文系出版社へ書籍編集者として入社しました。
担当書籍は、主に、思想、心理学、ニューサイエンスの翻訳書でした。
転職するまでの約6年間で、30冊前後の書籍を手がけました。
1年に5冊くらいのペースです。
他の出版社にくらべれば、1冊の本の編集にじっくり取り組める環境でした。
仕事の内容は、(1)企画、(2)原稿検討、(3)原稿整理(組版)、(4)校正、(5)装丁(装丁家に依頼)、(6)パブリシティ(注目や評判を集めるための宣伝・広報)といったところでした。
出版社によっては、会社の規模や外注の利用頻度などによって、これらのプロセスのうちの一部だけをこなせばいい出版社もあれば、原価計算や印税の支払い、書店・取次営業など、製本、契約、販売にまつわるすべての仕事をこなさなければならない出版社もあります。
そういった点からすると、ぼくが入社した出版社は、ふつうだったと思います。
一方、書籍編集者の仕事の範囲は出版社によってまちまちではあっても、その中核となる仕事はいっしょです。
それは、(1)企画と(2)原稿検討です。
なぜなら、この2つの仕事いかんで、本の質が決まってくるからです。
〝よい企画〟を通し、〝よい原稿〟に仕上げる。
大事なのは、この2つです。
〝よい企画〟とは、少なくとも読み物の場合、読者対象と論点と切り口が明確、つまり〝誰に、何を、どう伝えるか〟が明確な本の企画のことです。
また、〝よい原稿〟とは、構成(話の流れ)が論理的で、文章が理解しやすい原稿のことです。
なお、翻訳書の場合は、すでに原書があるので、全体の論旨をふまえたうえで、どれだけうまく訳すか(日本人の読者が読んで、どれだけ日本語として違和感なく読める文章にできるか)が、〝よい原稿〟かどうかの判断基準になります。
原稿の修正は大変だった
ただし、現実には、〝よい企画〟は決して多くなく、仮にそうした企画を会議で通したとしても、必ずしも〝よい原稿〟に仕上がるとはかぎりません。
〝よい原稿〟という点では、翻訳者から送られてきた原稿(訳稿)がひどく、苦労したことが何度もありました。
翻訳は請負業者に依頼することが多かったのですが、その請負業者は、一方で翻訳者養成学校を経営していて、基本的にその卒業生に請け負った翻訳を回すという方式をとっていました。
そして、ぼくが勤めていた出版社は中小だったので、実績のある翻訳者ではなく、まだ1冊も翻訳の仕事をしたことがないピヨピヨの〝翻訳者の卵〟から訳稿が上がってくることが多々あったのです。
そうした訳稿は、たいてい、今で言えばGoogle翻訳以下。
「翻訳の仕事は、はじめてなもので……」などと言い訳できないようなレベルです。
まるで中学生が訳したような訳文で、英文の後ろのほうから訳し上げ、およそ意味がわかりづらい文章の塊になっていました。
そんなときは、そのまま翻訳者へ突き返したい衝動に駆られましたが、そんなことをしても訳稿のレベルアップは望めません。
それが望めるなら、はじめからもっとちゃんとした訳稿を送ってきているはずです。
なので、こちらが英和辞書片手に原文と訳文を突き合わせ、修正していかなければいけません。
これが大変!
ページ数が多い本だと、修正に丸々3ヵ月かかるなんてこともありました(汗)
土日も家へ原書と訳稿を持って帰り、1日8時間は修正していました(大汗)
まさに休日返上です(泣)
「訳者あとがき」に、〝編集を担当された〇〇さん(←ぼくの名前)との共同翻訳のようでした〟みたいなことを書かれて、〈そーじゃねーだろ、実質オレが翻訳者だろ〉とツッコミを入れたくなるくらい大変なこともありました(怒)
おかげで、こちらもだいぶ鍛えられ、ある程度の翻訳力はついたような気はします。
その点では、ひどい訳稿に感謝です(笑)
書籍編集者の醍醐味とは?
このように、今でもグチりたくなるような大変なことはありましたが、一方で、書籍編集者には醍醐味もあります。
それは、担当書籍の〝最初の読者〟になれるということです。
たとえば、ぼくは翻訳書の編集以外にも、日本人著者による書下ろしの企画編集も何冊かこなしました。
著者から送られてきた原稿を封筒から取り出すときの、あのワクワク感とドキドキ感は今でも忘れません。
ワクワク感とは、どんな著作に仕上がっているのだろうという期待感です。
ドキドキ感とは、ちゃんと書籍として出版するに足るだけの質をそなえているだろうかという不安感です。
もちろん、事前に打ち合わせたうえで企画を通しているので、何をどう書いてもらうかは決まっているのですが、それが文章として適切に表現されているのかどうかは、やはり原稿を読むまでわからないのです。
しかし、その著作の〝最初の読者〟になれるという点では、ワクワク感のほうがまさっていました。
そして、そうした心境で読んでいくなかで、不明だったり疑問に感じたりするところを遠慮なく著者に訊けるというのが、〝最初の読者〟としてのもう1つの醍醐味でした。
「ここはこういうことを言いたいのでしょうか?」とか「であれば、こういう書き方をしたほうがわかりやすいのでは?」とか「こういう説明を加えたほうが読者の理解が進むと思います」とか、そんな注文、ふつうの読者じゃ絶対にできませんから。
また、そういうとき、著者と話がはずみ、おもしろい話題が出て、「その話、原稿に加えましょうよ!」となったこともありました。
たしかそのときは、気がつくと4時間も経っていて、〈打ち合わせ場所を「談話室滝沢」にしておいてよかった〉と思ったのをおぼえています(笑)
装丁の苦労と楽しみ
さて、原稿、あるいは、自分で組版したデータを印刷所へ入稿し、初校ができてくるまでのあいだ、装丁家に装丁を依頼します。
装丁家はそれぞれ個性があるので、本の内容にふさわしいデザインをしてくれそうな装丁家へ依頼するのが鉄則です。
ここでミスマッチしてしまうと、本の内容とチグハグな装丁となってしまい、「あちゃー!!」となってしまいます(汗)
ぼくの場合、複数のジャンルの翻訳書と書き下ろし本を担当していたので、テイストが違う2人の装丁家をメインに、たまに他の装丁家に依頼するというやり方でした。
装丁で気をつかったのは、装丁案に対して編集長や販売部からOKをもらうこともさることながら、装丁家から指定された、ジャケット、帯、表紙、化粧扉にそれぞれ使う用紙について製作担当部署からOKをもらうことでした。
この部署は、印刷や紙の調達など、本の製作に関わるスケジュールや費用の調整を行なうところで、何かと製作費用を節約しようとする傾向にありました。
装丁家は、依頼を受けた本に見合うデザインや質感を大事にするので、ときに高品質で高価な紙を指定してくることがあります。
そんなとき、製作担当部署から「こんな高い紙を使う必要がどこにあるんだね?」と言われ、こちらが反論してもラチが開かず、結局、装丁家に頭を下げて、質と価格を落とした紙に変えざるをえないことがありました。
「そんなの、紙の費用を本の価格に上乗せすりゃいいじゃないか」と思われた方もいらっしゃるでしょうが、ぼくのいた出版社は、〝いい本をなるべく廉価で〟みたいな妙なポリシーがあり、単純にコストを価格に上乗せできなかったのです。
また、製作費をいくらかけるかは、その製作担当部署がすべてコントロールしていて、編集者が口出しできないという事情もありました。
そんな気苦労が毎回のようにあった一方で、装丁家の事務所にお邪魔するのはとても楽しみでした。
事務所が、その装丁家が手がけた本の装丁の〝展示会場〟になっていて、それをながめているだけで視覚的に楽しめたのです。
〈この人、こんなデザインもするんだ〉という意外性を発見できるのも楽しみの1つでした。
さらに、装丁だけでなく、〈他社から、こんな内容の本が出ていたんだ〉という発見もあり、帰りに書店に寄って買ったということもあります。
あるいは、現在進行中の他社本の情報を聞けることもあり、その話でけっこう盛り上がって、結果、何時間もお邪魔してしまったということもありました。
このように、装丁家の事務所にお邪魔するのは、(3)原稿整理(組版)と(4)校正の合間の息抜き的時間だったように思います。
担当書籍は〝自分の子ども〟
自分が担当した書籍というのは、〝自分の子ども〟みたいな感じです。
著者も同様の思いのはずです。
とりわけ、編集に苦労した本であれば、無事責了し、後日見本を手にしたときは、思わずほおずりしたくなるものです(たぶん)。
それは、まるで生まれたてのわが子をはじめて抱っこするときの心境に似ているかもしれません。
また、自分の担当書籍が書店に平積みされているのを見ると、思わず顔がニヤけてくるのを抑えることができませんでした。
これは、幼稚園のお遊戯の舞台に立つわが子を見る心境に似ているかもしれません。
しかも、たまたま見知らぬ客が自分の本を手にするのを目撃したときは、〈その本、オレが編集したの。だから買って!〉と叫びそうになってしまいました(笑)
さらに、パブリシティでメディアに送った本が、新聞や雑誌などで紹介されると、〈わが子が認められた〉みたいな気持ちになることもありました。
しかし、現実は厳しいもので、いいことばかりではありません。
手がかかって苦労したからといって、その本が必ず予測どおりに売れる(初版部数を売り切る)とはかぎりませんでした。
販売の問題もあるでしょうが、〝よい企画〟で〝よい原稿〟でも、予測を下回る売れ行きのこともありました。
担当書籍が百発百中の書籍編集者なんているはずありませんが、それでも予測が外れると、〈……〉な心境です。
これはぼくの勝手な持論ですが、プロ野球で3割打てば好打者と言われるのと同じで、担当書籍の3割が予測どおり売れれば、書籍編集者としては上出来なのではないでしょうか。
しかし、ぼくは、〝好編集者〟になるのを待たずに(なれなかったかもしれませんが)、某専門学校の専任教員に転職したのでした。
専門学校専任教員&大学非常勤講師
専門学校の教員になるには?
ぼくは、書籍編集者をしているうち、表舞台で脚光を浴びる著者がうらやましくなり、自分も脚光を浴びることができる仕事へ転職したいと思うようになりました。
その結果、転職したのが専門学校の教員でした。
ちょうど2000年のころです。
もともと人に何かを説明することが好きだったし、教壇に立って授業をする自分自身を想像すると、ワクワクしたからです。
よく、専門学校の教員の経験があると言うと、「教員免許をお持ちなんですね」と訊かれるのですが、ぼくは教員免許を持っていません。
実は、専門学校の教員は教員免許を持っていなくてもなれるのです。
ただし、ぼくが転職した専門学校は、「大学院修了」が応募条件となっていました。
おそらく、ほとんどの専門学校は、大学卒業か大学院修了の人、あるいは、医療・福祉や工業・通信、芸術など実践を伴う教育を行なっている場合は、その分野での実務経験があるとか、学生が取得をめざす資格をすでに持っているとか、そういう人しか応募できません。
また、教育経験があることを応募資格に挙げている専門学校も多いと思います。
でも、ぼくの場合、教育経験は問われませんでした。
応募するときは、〈そんな学校もあるんだな〉くらいにしか思っていませんでしたが、入ってみて、その理由がわかりました。
その専門学校は、学生を姉妹校の大学の通信教育課程に同時入学させ、授業のなかで単位取得に必要なレポートの指導をし、同時にその授業そのものが大学のスクーリング(面接授業)の単位にもなるというシステムをとっていました。
つまり、授業の中心は学生にレポートの内容を理解させ、下書きを書かせることで、そのため、教員の仕事は文章指導と添削がメインだったのです。
「書籍編集者は文章を直したり書いたりするのが仕事だから、レポート指導にはうってつけだと思った」
転職後しばらくして、ぼくを採用した理由を、教務部長はそんなふうに教えてくれました。
レポート指導はチョ~大変だった(汗)
レポート指導は、レポート(課題)の内容をいくつかのパートに分け、そのパートごとの下書きを毎回の授業のなかで学生に書かせ、それを逐次、添削していくという仕事です。
しかし、高校を出たての学生たちは予想以上に文章を書くことに慣れておらず、主語と述語が対応していないとか、話の流れがヘンだとか、要は日本語になっていない下書きが数多くありました。
教科書や参考書の丸写しも少なくありませんでした。
教科書の丸写しは一目瞭然です。
参考書の丸写しも、読むとすぐに〈あの学生にこんな硬い文章、書けるわけがない〉(笑)と感じ、図書室の書籍を何冊かあたってみると、たいていまるで同じ文章が見つかりました。
何冊かの参考書の記述を切り貼りしている下書きもあり、そうした下書きは〝パッチワーク感〟がハンパありませんでした(汗)
たとえば、「です」「ます」調の文章が、段落が変わったとたんに「である」調に変わったりしているわけです(笑)
さらに、似たようなテイストの下書きを何人もの学生が出してくる「類似」も、毎回のようにありました。
これは、元になる下書きがあって、その文章を各自が部分的に変え、あたかも自分で書いたかのような下書きに仕上げるのです。
1本の下書きのなかに、他の下書きと同一の文章が複数あれば、「類似」と判断しました。
丸写しとパッチワークと「類似」の下書きは、書き直しです。
しかし、再提出された下書きは、ほぼ日本語になっていませんでした(汗)
学期中は、下書きを添削するだけの日々になります。
もちろん、とてもよく書けた下書きもありました。
そうした下書きは直すところがあまりないので、ほぼ目を通して終わりです。
数分もかかりません。
でも、それ以外の下書きは、細かく添削する必要があり、1本20~30分かかります。
こうした要添削の下書きは全体の7~8割あるため、1週間のうちの4~5日は添削にかかりっきりにならざるをえなくなります。
この状態が、ゴールデンウィークや夏休み、年末年始の休み、春休み以外、ずっと続くわけです。
ぼくは土日も時間を惜しんで添削しました。
次の週の授業までに返却しないと、その次の下書きを書かせても添削することができなくなってしまうからです。
とはいえ、実際は、添削は遅れ、どんどん下書きがたまっていき、結局、学期内に、レポートの課題の内容をすべてこなすことはできませんでした(汗)
学期末には疲労困憊……。
でも、おかげで〝添削力〟はついたように思います。
学生との交流は楽しかったし、勉強にもなった
レポート指導は目が回るほど大変でしたが、学生たちとの交流は楽しいものでした。
平日昼間の通学課程に通う20歳前後の学生たちと話していると、何のマンガがはやっているとか、ヒット曲は何だとか、どこそこのラーメンはうまいだとか、今度こんなところに遊びに行くだとか、ナウでヤングな情報を聞くことができました。
ちょうどADSLが開始された、まだインターネットに情報があふれかえる前の時代だったので、はじめて聞く話が多く、新鮮に思えました。
あるいは、誰それと何某(なにがし)はつきあっているとか、あの先生にはこんなあだ名がついているとか(ぼくのあだ名は「くろちゃん」だと教えられました)、あいつはこのあいだこんなことをやらかしたとか、インターネットでは絶対にわからないレアでローカルな周辺情報も多く聞くことができました。
また、ときには、「友だちとケンカしたけど仲直りしたい」とか「彼氏とうまくいっていないけどどうしたらいいかわからない」といった相談をもちかけられることもありました。
一方、土日の課程に通う社会人の学生たちになると、まるで話題が異なりました。
もっとも多かったのは、職場の話です。
社会福祉系の専門学校だったので、福祉施設勤務の学生が多く、現場のナマの情報が聞けるのが新鮮でした。
問題意識が高い学生もいたので、そうした学生の話を聞くのはとても勉強になりました。
また、わざわざ自分で学費を出して通学しているので、勉強熱心な学生が多く、レポートの書き方や勉強のしかたについて熱心に質問してくる向上心が高い学生も多くいました。
ちなみに、レポートの下書きも、こう言っちゃ悪いですが、平日昼間の学生とは比較にならないくらい高い質でした。
なので、土日課程の学生の下書きの添削は、ほぼ目を通すだけのものが多く、逆に興味深い下書きが少なくありませんでした。
どうすれば〝いいレポート〟が書けるのか?
専門学校の授業は、大学のスクーリング(面接授業)も兼ねるため、そうした授業を担当する教員は、同時に姉妹校の大学の非常勤講師としても委嘱されます。
そして、大学には、専門学校生とはまるで無関係に、ふつうに通信教育課程に入学する一般の学生がいて、そうした学生相手のスクーリングを担当することもありました。
こちらは、他大学の通信教育と同じで、学生はそのときだけスクーリング会場に来て、スクーリングを受講します。
スクーリングは、9時から19時過ぎまでの授業を2日間みっちり行ないます。
短期決戦型授業なので、専門学校の平日昼間や土日のコースの学生のように、下書きを書かせて添削する時間はとれません。
その代わり、ぼくは、1コマを使って、どうすれば〝いいレポート〟が書けるのかについて伝えていました。
この授業が、自分で言うのもなんですが、思った以上に好評で、学生からは「はじめてレポートの書き方がわかった」「これなら通信教育を続けていけそう」と喜ばれました (^^)v
一般の通信教育生は、専門学校生とは違い、常に顔を合わせるクラスメイトがいるわけではなく、日ごろは1人孤独にレポート作成に取り組んでいる学生がほとんどです。
これは想像以上に大変で、レポート作成がうまくいかずに中退してしまう学生が少なくないのです。
でも、逆に言えば、レポート作成さえ乗り切ればなんとかなるはずです。
そう考え、少しでも〝いいレポート〟を書くことができるように、そして、それによって学生が1人でも中退しないで済むように、そう願いつつ、レポート作成法を伝えていました。
このサイトの別ページで、その内容を「大学通信教育レポート作成必勝法」として公開していますので、ぜひごらんください。
インターネットプロバイダーの説明員
仕事の内容は?
ワンマンな学校経営に嫌気が差したので、専門学校の専任教員は3年で辞め、同大学の非常勤講師オンリーとなりました。
専任教員時代のような拘束感がなくなったので、楽しく仕事ができました。
しかし、非常勤講師は専任教員と違って、通信教育のレポート添削と科目終了試験の採点、担当したスクーリングに応じた給与しかもらえません。
非常勤講師の給与だけではとうてい食べていくことはできませんでした。
そこで、生活費を稼ぐために、まず、マンション専門のインターネットプロバイダーの説明員の仕事を掛け持ちしました。
ぼくがこの仕事を始めた当時、マンションを新築するときに、建物内にあらかじめLANケーブルを這わせておいて、入居時には全戸でインターネットが使えるようにしておき、その料金を管理費といっしょに入居者のクレジットカード経由で(強制的に)引き落とすという物件がけっこうありました。
そして、その運営・管理の多くを、マンション専門の特定のインターネットプロバイダーが請け負っていたのです。
ぼくがやっていたのは、そういうプロバイダーの説明員でした。
具体的には、入居説明会や内覧会に出向いて、サービスや料金について説明し、質問に答えるというもの。
質問といっても、〝いま使っているプロバイダーのメールアドレスをそのまま使い続けたいが、どうすればいいか?〟とか〝回線の速度はどれくらいか?〟というような基本的なものが多く、5分もあれば1組終了といった感じでした。
大規模マンションだと部屋数が多いので、説明しなければいけない組数も多くなり、夜8時過ぎまでかかるということもありましたが、逆に小規模マンションだと、午前中で終わりということもありました。
日給は一律10000円(交通費込み)。
夜遅くまでかかる物件が何回か続くと〈割に合わんなぁ〉と思うこともありましたが、一方で、早く終われる物件に何回か当たると〈ラッキー、おいしい仕事だ♪〉と思えたので、平均すれば、まあまあの納得感はありました。
この仕事をしていてよかったと思えたのは、インターネットに多少は詳しくなったことと、他の説明員の人と仲良くなったこと。
特に、他の説明員の人は、ぼくと同じように仕事を掛け持ちしている人が多く、元通信技術者とかケーブルテレビのヘルプデスクの人とかイラストレーターとか主婦とかプータローとか、いろいろいて、彼らを通して知らない世界を垣間見ることができました。
つらかったこと①:クレーム対応
一方、つらかったこともありました。
1つは、クレーム対応です。
たとえば、あるとき、プロバイダーが決められているのは困るというクレームがありました。
たいていの入居者は、始めからインターネットが使える状態になっているのは、いちいちプロバイダー契約をする必要がなく、部屋にあるLANの差込口とパソコンや無線ルーターとをLANケーブルで接続するだけでいいので、手間がかからず便利だと喜んでくれました。
しかし、その入居者は、〝商売のためにプロバイダーはヤフーを使っている。ヤフーのIP電話(たしか「BBフォン」とか言った)の番号はどうしても変えられない。それに、BBフォンが使えなくなると相互無料通話もなくなって通話料が多くかかるようになる。さあ、どうしてくれるんだ!?〟と強弁しました。
この場合は、別途、電話回線経由でADSLを引いてもらうしか方法がなかったのですが、当然、その月額費用がかかります。
つまり、強制的に引き落とされるマンション専用のプロバイダー料金に加え、さらにもう1つプロバイダー(この場合はヤフー)を契約し、その月額料金も払わなければいけなくなるわけです。
それで「納得いかん!」と激怒した入居者から、(ぼくのせいじゃないのに)2時間以上にわたって怒鳴られ続けるということがあったのです。
マンションのプロバイダーがあらかじめ決められていて、料金がかかるという記述は、購入契約するときの「重要説明事項」のなかにちゃんと含まれています。
それで販売会社から「前もってご説明させていただいたうえで署名をいただいております」と説明してもらったのですが、引っ込みがつかなくなったのか逆ギレされ、火に油を注ぐような状態になってしまいました。
〈なんだよ、この客……〉と思いつつも、周囲からの哀れみに満ちた視線を浴びながら、立場上黙って聞いていることしかできませんでした。
ちなみに、このときは、クレーム(というか罵倒)を受け続けるのもつらかったですが、それ以上に、トイレを我慢するほうがつらかったです。
つらかったこと②:寒さ
もう1つ、つらかったのが、寒さ。
マンションの内覧会というのは、1月から3月に行われることがもっとも多く、付属設備やサービスを提供する業者の待機場所は屋外ということが少なくありませんでした。
昼でも気温が3度くらいにしかならない日に、朝8時から夜7時まで、裏手の陽の当たらない駐車場でずっと待機なんてこともありました。
このときの物件の場合、ストーブや火鉢などの火の気は一切なし。
座れるイスもなし。
販売会社の人がさすがにかわいそうだと思って、その物件の責任者に暖房器具の手配をかけあってくれたのですが、「業者にそんな配慮はいらない」と言われたそうです。
非人間的な環境に置かれ、寒くて寒くて、変なダンスをしているみたいにカラダを常に動かしていないと我慢できない状態でした。
しかも、入居者が説明してほしいと言ったときだけ呼ばれるスタイルだったのですが、呼ばれたのは1回だけで、その1回というのも、やっと昼ご飯の時間になって、近くのマクドナルドの店内で天使のようなぬくもりを感じながらハンバーガーを3口くらいかじったタイミングで、「すぐに来て」と呼び出されての対応でした。
ハンバーガーはテイクアウトしたものの、客対応後に、待機場所で寒さに震えながら食べました。
ホットコーヒーは、すっかり冷え切って、真夏に飲めばおいしそうなアイスコーヒーになっていました。
夕方になって、さらに冷え込んでくるころには、感覚がマヒして寒さを感じなくなり、汗が出てきたのを覚えています。
ちなみに、この物件は3日連続で担当し、最終日に帰宅後、みごとにお腹を下しました。
公園墓地の案内人
世の中にはこんなにラクな仕事があったのか!?
大学非常勤講師時代、インターネットプロバイダーの説明員とともに掛け持ちしていたのが、公園墓地の案内人でした。
ぼくは、これまでアルバイトを含め、10以上の職種を経験しましたが、〈世の中にはこんなにラクな仕事があったのか!?〉と驚いた仕事でした。
お墓を買いに見学に来た客を案内し、区画の予約をしてもらうというのが、仕事内容です。
墓地に出入りする石材店が雇用主で、たいていは契約社員かアルバイトです。
この仕事では、特定の墓地(ぼくの場合は民営の公園墓地)に配属され、見学客が来るのを待ちます。
しかし、お墓というのは、バンバン売れるような商品では決してありません。
だから、客がめったに来ないのです。
土日や祝祭日、お彼岸やお盆には、ある程度の数の客は来ます。
でも、平日にはほとんど来ません。
そのため、朝9時に来て、何もしないでボーっとして、夕方5時に帰るという、たんにお昼にお弁当を食べに来ただけの日が何日もありました。
何もしないのが耐えられない人には地獄だと思います(汗)
しかし、ぼくのように、何もしなくても平気な人には天国のような仕事でした(^^)v
読書家なら、何冊も本を読めるでしょう。
それでいて、ぼくの場合は、2007-2008年当時で日給は7000円でした。
ぼくは、平日に週4日のペースだったので、ひと月にして12万円前後になりました。
ちなみに、土日や祝祭日、彼岸やお盆の時期に働いた場合は、見学客が平日よりは来るので、日給は少し高くなり、8000円でした。
〝人生っていろいろ〟だと学べる場
石材店によっては専任の案内人を雇わず、若い営業マンが案内所に詰めるところもありましたが、ほとんどは定年退職者と子育てを終えた主婦でした。
その年齢層は、50~70代です。
そうした方々と話すと、〈人生って、いろいろなんだなぁ〉と思え、いい人生勉強になりました。
まるで日給をもらって、人生について教えてもらっているような感覚でした。
このように、少なくとも当時は、肉体的・時間的にはとてもラクで、そこそこの給与を頂けるのが、墓地の案内人の仕事でした。
変な先輩や偏屈な他社案内人にイジメられる気の毒な方もいましたが、そこらへんのコキ使われるバイトに比べれば、かなりいい仕事でした。
〝いっしょにお墓選びをして差し上げる〟のがキモ
ただし、いくらラクといっても、いい加減な仕事をしていいわけではもちろんありません。
見学客のなかには、家族や親類を亡くされてまもなくの方もいらっしゃいます。
そうした方の気持ちに寄り添いながら、〝いっしょにお墓選びをして差し上げる〟というスタンスを取ることが最低限求められます。
また、あまり予約を取れなかったり、クレームが続いたりすると、出勤日を減らされたりクビになったりします。
ぼくも、予約が取れないことが続き、出勤日を減らされたことがあります。
また、案内人には、「ジャッジ」という気を遣う仕事があります。
墓地に見学に来た客がどの石材店の客か、あるいは、どの石材店の客として扱うべきかを判断する仕事です。
ジャッジのルールは墓地ごとに異なりますが、判断を誤ったり、ルールに適さない判断をしたりすると、他社(の案内人)とトラブルになることがあるのです。
でも、こうした責任やリスクはありながらも、墓地の案内人の仕事は、気楽でのんびりできる仕事でした。
ちなみに、案内人が得た墓地の区画予約を引き継いで建墓契約をしたり(案内人に建墓契約まで任せる石材店もある)、施工を発注したりするのは営業マンです。
石材店の営業マンは、案内人と比べると、朝から晩まで忙しく、ノルマがあり、ブラックな働き方をさせられている営業マンもいました。
霊園で〝心霊体験〟
亡くなった少女の話をしていると、突然……!
ところで、ぼくは、公園墓地の案内人をしているあいだ、〝衝撃的な出来事〟を2つ体験しました。
1つは〝心霊体験〟です(震)
案内人は、たいてい、霊園の敷地のなかにある案内所で待機します。
ぼくは〝その日〟も、いつものように、とある霊園の案内所で待機し、他の石材店の人たちと雑談していました。
すると、そのうちの1人がふいに、「その墓、タバコが供えてあるな」と言いました。
「その墓」とは、案内所の目の前に建てられた享年18歳の女性の骨が納められた墓でした。
案内所の窓越しに、よく見えました。
「18歳なのに、タバコを供えちゃっていいのかい?」
他の誰かが言いました。
「いや、生きてりゃ20歳過ぎてるから、いいんだよ」
別の誰かが言いました。
「いやぁ、そうは言ってもさ、……」
そう誰かが〝反論〟し、しばらく「ああでもない、こうでもない」と、暇に任せた、くだらない〝議論〟で盛り上がりました。
「やっぱりさぁ、亡くなったのは18のときなんだから、タバコはダメなんじゃないのぉ!?」
そう誰かが声高に言い放ちました。
と、ちょうどそのときでした。
ガシャーン!!
そのお墓が目の前に見える窓に取り付けられていたブラインドが、突然落ちたのです!
シーン……
今までの盛り上がりはどこへやら、数秒、凍りついたような沈黙がありました。
ぼくは、その案内所に何度も待機したことがあるのですが、ブラインドはちょっとやそっとの力で落ちるようなヤワな代物ではありませんでした。
そのブラインドが、まさにこのタイミングで、こんなに派手に落ちるとは、まさか……
「もう、この話、やめようや……」
誰かがそう声を絞り出して言いました。
その言葉に応えて、みな寡黙にうなづき、タバコの話題はそれで終わりになりました。
その日の夕方に起きた現象でパニックに!
その日の夕方、ぼくはお客さんを案内することになりました。
いろいろ質問を受けたり、説明したりしているうちに、17時を過ぎてしまいました。
霊園の案内業務は17時までで、この時間を過ぎると、みな潮が引くようにさっさと帰ってしまいます。
管理事務所も同様で、ぼくがお客さんのお見送りをし、案内所に戻ったときには、もう誰も残っていませんでした。
お客さんを案内したら、その日のうちに報告書を書いて、会社へFAXで送らなければなりません。
就業時間を過ぎているので、ぼくは急いで報告書を書き上げて仕事を終わらせようと、筆を走らせました。
その日は初夏の陽気で、やや蒸し暑く、夕方になると、なまぬるい風が吹いてきました。
しばらくすると、外は暗くなってきました。
こんな時間に、しかも1人で霊園にいるなんて、生まれて初めてです。
なにやら薄気味悪い感じがしてきました。
〈これは早いとこ、報告書を書き上げないと〉
そう思いながら、報告書を半分ほど書き上げたころでした。
カタカタカタ……
物音がするのに気づきました。
音が出るほうを見ると、そこは、昼間に落ちたブラインドが取り付けられた窓でした。
ブラインドは、元の位置に取り付けられていました。
最初は、風で窓が音を立てているのかと思いました。
でも、そうではありませんでした。
音を立てていたのは、ブラインドのほうでした。
風は吹いていたものの、木の葉が少し揺れる程度で、窓やブラインドが音を立てるほどの勢いではまったくありませんでした。
ブラインド以外、案内所のなかの物はいっさい音を立てていません。
なのに、なぜか、そのブラインドだけがカタカタと音を立てているのです!
全身に一気に鳥肌が立ちました。
「うわわわわわぁ」
思わず奇声にならない奇声が洩れました(笑)
〈女の子の霊が怒ってる!〉(震)
そう思ったら最後、心臓バクバク、からだブルブル、手先カクカク。
パニックになってしまいました(汗)
どうにか報告書を書いて、FAXしたものの、何をどう書いたかはわかりませんでした。
案内所を転がり出るように飛び出し、駐車場に停めてある車へ逃げ込むように飛び乗ったことだけは鮮明におぼえています。
あの現象の正体は謎のまま
翌日。
同じ案内所へ出勤すると、他社の案内人の女性から、声をかけられました。
「きのう、最後までいらっしゃったでしょ? 消灯と施錠は忘れないでくださいね」
物腰は柔らかでしたが、明らかに〈ちゃんとやってよ〉的な雰囲気が漂っていました。
「すみませんでした。気をつけます」
そう謝ってまもなく、今度は会社から電話がありました。
「きのう送ってもらった報告書だけどね、書き直して、もう1度送ってください」
口調は穏やかだったものの、〈こんなもん送ってくんな〉的な雰囲気が漂っていました。
「すみません、書き直します」
そう謝って、前の日にFAX送信した報告書を見ると、ブラインドがカタカタと音を立てはじめてパニックになってから書いた後半部分は、不良中学生でもこんな書き方しないだろぐらいのひどい殴り書きで、自分でも〈なんて書いてあるんだ?〉と思うような乱筆でした。
怒られるのも当然でした(汗)
〈それにしても、あのカタカタは何だったのだろう?〉
当のブラインドと、窓越しに見えるお墓とを交互に見くらべながら、そう考えていると、また前の日の恐怖がよみがえってきたので、考えるのはやめにしました。
他の人に話す気にもなれませんでした。
そんなことをしたら、また女の子の霊が怒るかもしれません(汗)。
今度は、自分が座っているイスが突然壊れて、したたか尻もちをついてケガ……なんてことは絶対に避けなければなりません(大汗)
なので、他の人に話すこともせず、そのうちこの一件の記憶は、だんだんと薄れていきました。
いったい、あの現象は何だったのか、今でも謎のままです。
霊園で大絶叫
毎日お墓参りに来るおじいさん
もう1つの〝衝撃的な出来事〟は、霊園で大絶叫した(らしい)ことです。
あるとき、ぼくは、上記の出来事のときとはまた別の公園墓地に待機していました。
その墓地は、墓域が周囲よりも高くなっているので、墓域に行くには階段をのぼっていく構造でした。
待機して数日、ぼくは、毎日午前中の決まった時間に、その階段を、お花やお供え物を持ってのぼっていき、決まって30分すると下りてくるおじいさんがいることに気づきました。
他の石材店の案内人に訊くと、奥さんに先立たれ、お参りに来るのが日課なのだと聞かされました。
それから約半月後、〝その日〟もおじいさんはお花とお供え物を持ってやってきて、階段をのぼっていきました。
もう当たり前の光景になっていたので、ぼくは〈今日も来たな〉くらいにしか思っていませんでした。
その日は小春日和の平日でしたが、お参りのお客さんは、そのおじいさん以外いませんでした。
ぼくは、とくにやることもなく暇だったので、あたたかな案内所のなかで、こっくりこっくり居眠りをしていました。
いつまで経っても戻ってこないおじいさん。見に行くと……
「それにしても遅いなぁ」
A石材店のおじさんの声で、ぼくは目が覚めました。
「もう1時間以上経ってるよ」
B石材店のおじさんが言いました。
どうやら、おじいさんが墓域に上がったまま、下りてこない様子でした。
それから10分、20分、30分経っても、おじいさんは下りてきません。
「何かあったんじゃないのか……?」
案内所には、ぼくを含めて5人の案内人がいましたが、さすがにみんな心配になってきました。
「オレ、昔、やっぱり墓域から戻ってこない人がいて見に行ったら、首吊ってたんだよ……」
〈アトオイジサツ……!?〉
C石材店のおじさんのそのひと言で、みんな同じことを思ったのか、案内所は一気に緊張感に包まれました。
「だ、だれか、様子を見に行ったほうがいいよ……」
A石材店のおじさんはそう言いましたが、本人も含めみんな尻込みしています。
そのお墓を建てた石材店の案内人がいれば、その人に見に行ってもらうところですが、あいにくその日は不在でした。
「こうなったらジャンケンで決めよう」
B石材店のおじさんが意を決したように言いました。
「それしかないな……」
他の4人は渋々同意し、輪になりました。
「よし、いくぞ!」
B石材店のおじさんがかけ声をかけます。
みんなゴクリと唾を飲み込みました。
「最初はグー! ジャンケンポン!!」
グー、チョキ、パーが出て、〝おあいこ〟でした。
誰かのため息が洩れます。
「もう1回! 最初はグー! ジャンケンポン!!」
また〝おあいこ〟でした。
ものすごい緊迫感です(汗)
みんな、仁王像のように目を見開き、おそろしい形相になっています。
ぼくの手のひらはぐっしょりと汗ばんでいました。
「よし、もう1回!」
そのとき、D石材店のおじさんが絞り出すような声で言いました。
「ちょ、ちょっとひと息つかせて……」
そのひと言で、みんな少し間をとりました。
深呼吸したり、首や肩を回したりして、次の対戦にそなえます。
「よし、いいか、いくぞ!」
B石材店のおじさんが声を張り上げます。
みんな腰を低くします。
「よっしゃ!」
A石材店のおじさんが自分に気合を入れます。
「最初はグー! ジャンケンポン!!」
ぼくは目を疑いました。
他の4人はパーなのに、ぼくだけグーでした (゚〇゚;)
「〇〇さん(←石材店の名前)! 行ってきて!!」
ぼくは、他の4人に背中を押され、案内所の外に押し出されました。
B石材店のおじさんが、顔を墓域の方向に振って、行けと促します。
ぼくは、ゆっくりと階段をのぼっていきました。
階段は30段くらいありましたが、こんなに長く感じたのは初めてでした。
1段1段のぼる足取りがとても重く感じられます。
途中で案内所のほうを振り向くと、みんな、ぼくのことを凝視しています。
最後の10段は、それこそ亀の歩みでした。
なかなか足が前へ出ません。
1段のぼるごとに、墓域が視界に入ってきます。
残り2、3段というところで、ぼくは恐る恐る墓域を見渡しました。
〈いた!〉
20メートルくらい離れたお墓の前で、頭(こうべ)を垂れてぐったりと座っているおじいさんが目に入りました。
身動きひとつしません。
ぼくは、おじいさんに視線が固定されたまま、息ができませんでした。
〈やっぱり……シンデル!?〉
そう思った瞬間、おじいさんの顔がヌーッとゆっくり回って、こちらを向き、ぼくを直視しました。
顔が真っ白です。
その動作と表情は、まるでホラー映画に出てくるゾンビのようでした!
〈!!!!!!!!!!〉
ぼくは階段を転げ落ちるように下りました。
途中で転びそうになりながら、案内所に飛び込みました。
「どうだった!?」
4人は、ぼくの言葉を固唾(かたず)を飲んで待っています。
《〇》
両手を頭の上に挙げて円をつくるのが精一杯でした。
声が出ませんでした。
「おおぉ!」
安堵のどよめきが起きました。
「よかった! よかった!」
みんな口をそろえて無事を喜びました。
ぼくは、まるで地獄から命からがら生還したかのような気分でした。
しばらくは動悸が収まらず、ハァハァ言っていました。
おじいさんの日課に加わったこと
おじいさんが帰ってしばらくすると、管理事務所の女性が案内所にやってきました。
「先ほど墓域に上がられた方はいらっしゃいますか?」
物静かな口調ながらも、険のある物言いです。
他の4人が無言で、ぼくのほうを振り向きました。
ぼくは4人の顔を順番に見ながら、何だろうと思いつつ、恐る恐る手を挙げました。
すると、その女性は、ぼくのことをキッと見据え、やや大きめの声で言いました。
「先ほどお参りにいらしたお客さまが、自分を見るなり大声で叫んで逃げていった人がいるとおっしゃって、大変ご立腹でした!」
〈声、出てたのか!?〉
大声で叫んだ自覚はまるでありませんでした。
「お客さまには私から丁重にお詫びしておきました。今後は失礼のないようにお願いします!」
ぼくは「申し訳ありませんでした」と詫びて頭を下げました。
女性は〈ったく!〉というような雰囲気をありありと醸し出しながら管理事務所に戻っていきました。
その後もおじいさんは、雨の日も強風の日も、変わらずお墓参りにやってきては、きっちり30分で帰っていきました。
あの日以来、墓域からしばらく下りてこないということは、一度もありませんでした。
寸分たがわぬ完璧なルーティーンでした。
帰り際に案内所を一瞬キッとにらみつける動作が加わったこと以外は……