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ソクラテス
〝善く生きる〟とは?
ソクラテス(Socrates、B.C.470/469-B.C.399)は、「無知の知」(「不知の自覚」)の立場に立ち、人間にとってもっとも大切な「善美のことがら」については自分を含め誰も知らないという自覚のもと、言葉(ロゴス)を頼りに、〝善く生きるとはどういうことか?〟と問うていった。
この問いに対してソクラテス自身が出した答えは、〝「善く生きる」とは「アレテー」を身につけて生きることである〟というものだった。
「アレテー」とは、〝卓越性〟〝有能性〟と訳されるギリシア語で、そのものが持っている性能のよさのことである。
たとえば、〝ナイフのアレテー〟と言えば〝切れ味のよさ〟であり、〝馬のアレテー〟と言えば〝足の速さ〟である。
それでは、〝人間のアレテー〟とは何か?
それは、ソクラテスによれば、「魂の卓越性」(魂が優れていること)であった。
魂の卓越性
「魂の卓越性」とは、たとえ自分自身に不利益になることがわかっていても、道徳的なふるまいをすることができる性質のことである。
そして、ソクラテスは、この性質を身につけ、高めるためには、「魂の世話」(魂への配慮)が必要だと唱えた。
ソクラテスによれば、「魂の世話」(魂への配慮)とは、物事の本質を知ることだという。
とりわけ、〝勇気〟や〝正直〟といった人間にとっての徳の本質を知ることが重要である。
なぜなら、人間は、たとえば〝勇気〟の何たるかを知れば、勇気ある行為を必ずとる(とらざるをえない)存在だからである(「知行合一」)。
そして、徳を身につけ、道徳的なふるまいをする生き方は「幸福」でもある(「福徳一致」)。
そのようにソクラテスは考えたのだった。
プラトン
善のイデア
プラトン(Plato、B.C.427-B.C.347)は、ソクラテスの弟子である。
彼は、師ソクラテスの遺志を受け継ぎ、徳の本質の探究を進めていった。
プラトンは、『メノン』という著作のなかで、問答するソクラテスの姿を描くことを通して、およそ次のように述べている――
徳の本質を定義するには、徳があると思われるものを1つ1つ挙げていくだけではダメである。
それらに共通する〝何か〟を探究しなければならない。
しかも、その〝何か〟とは、すでに人びとに〝知られているもの〟である。
だから、あとは、その〝何か〟を「ディアレクティケー」(問答)によって「想起」(アナムネーシス)させてやればいい。
そうすれば、その〝何か〟を基準にして正しく道徳的な行為が可能となり、本人や社会を幸福にすることができる。
プラトンは、肉体や感覚によってはとらえることができず、ただ理性によってのみとらえることができる、この〝何か〟を「イデア」と呼んだ。
「イデア」は、われわれの世界にあるあらゆる事物の原型(オリジナル)であり、逆に、あらゆる事物は「イデア」の〝コピー〟である。
つまり、長さや大きさがバラバラな数多くの三角形がみな〝三角形〟に見えるのは、それらの奥に〝三角形のイデア〟を見ているからであり、木や犬がみな〝木〟や〝犬〟に見えるのは、それらの奥にそれぞれの「イデア」を見ているからである。
正しさや勇気も同じだ。
真に正しい行為が正しく思えたり、真に勇気ある行動が勇ましく見えたりするのは、その奥に〝正しさのイデア〟や〝勇気のイデア〟を見ているからである。
プラトンによれば、こうした「イデア」は「イデア界」(可想界)と呼ばれる永遠不変の世界に実際に存在する。
そして、その「イデア界」に調和をもたらし、さまざまな「イデア」をイデアたらしめる〝最高のイデア〟が存在するという。
それが「善のイデア」である。
『国家』というプラトンの著作によれば、「善のイデア」は、その光によって地上のすべてのものを照らし出し、眼で見ることができるようにする太陽と同じように、イデア界に存在するすべてのイデアを照らし出し、理性で認識できるようにする存在なのである。
そのため、プラトンの倫理学においては、個々のイデアを探究するのはもちろんのこと、「善のイデア」の存在に気づき、それを人びとに知らせることが重要なのである。
魂の三区分説と四元徳
プラトンは、人が正しくふるまうためには、イデアを想起することが必要であると考えた。
これは、たとえば、正しさのイデアを想起した(知った)ならば、その人の魂は正しくなる(正しくならざるをえない)のであり、そのため正しくふるまうことが可能になるということである。
逆に言えば、正しくふるまえないのは、その人が正しさのイデアを想起していない(知らない)からである。
魂がイデアを想起していれば(知っていれば)、道徳的なふるまいが行なえる。
これが、プラトンの倫理思想の基本である。
とはいえ、人はよく、理性と欲望のあいだで気持ちが揺れるものである。
プラトンは、『パイドロス』のなかで、こうした人間の魂のあり方を、2頭の馬と、その馬を操る1人の御者(ぎょしゃ)にたとえた。
このたとえでは、2頭の馬のうちの1頭を「気概」、もう1頭を「欲望」、2頭を操る御者を「理性」として表している。
「気概」が正しく働くと「勇気」という「徳」が現れ、逆に、誤って働くと「臆病」という「悪」が現れる。
「欲望」が正しく働くと「節制」という「徳」が現れ、逆に、誤って働くと「放埓」(ほうらつ)という「悪」が現れる。
「理性」が正しく働くと「知恵」という「徳」が現れ、逆に、誤って働くと「無知」という「悪」が現れる。
そして、「勇気」「節制」「知恵」が発現し、魂全体が調和したとき、「正義」という「徳」が現れるのである。
こうしたプラトンの魂に関する考え方を「魂の三区分説」(三分説)と呼び、「節制」「勇気」「知恵」「正義」の4つの徳を「四元徳」(しげんとく)と呼ぶ。
理想の国家のあり方
さらにプラトンは、『国家』において、こうした魂の見方をベースに、ポリス(古代ギリシアの都市国家)の理想のあり方を考えた。
つまり、ポリスを魂に見立てたのである。
プラトンは、まず国民を「守護者」(支配者)「補助者」(戦士)「大衆」(市民)の3つの階層=「種族」に分けた。
そして、それぞれの階層が「知恵」「勇気」「節制」という徳を発揮すれば、ポリスにおいては「正義」という徳が発現するので、ポリスの秩序は正しく維持されると考えたのである。
また、プラトンは、ポリスが理想のあり方であるためには、ポリスを正しく治める「知恵」を持つ人物が「守護者」(支配者)にならなければならないと考えた。
それでは、そうした「知恵」を持つ人物とは誰か?
それは、哲学者である。
つまり、プラトンによれば、哲学者が支配者になるか、支配者が哲学者にならなければ、ポリスの「正義」は実現しないことになる。
こうしたプラトンの考え方を「哲人政治」「哲人王政治」「哲人王論」などと呼ぶ。
アリストテレス
「知性的徳」と「倫理的徳」
アリストテレス(Aristoteles、B.C.384-322)は、プラトンの弟子である。
しかし、アリストテレスは、イデア論という理想主義的な哲学を唱えた師プラトンとは対照的に、現実の個物の内にこそ事物の本質=「形相」(エイドス)が存在するという現実主義的な哲学を唱えた。
そのため、倫理に関するアリストテレスの考え方は、プラトンに比べ、やはり現実主義的である。
アリストテレスは、『ニコマコス倫理学』において、人間の魂を、「知性的部分」(理性や思考の領域)と「非知性的部分」(感情や欲望の領域)とに分け、それぞれの優秀性=徳を「知性的徳」および「倫理的徳」(習性的徳)とした。
「知性的徳」は、思考の働きに関わる徳で、正しさを認識する「知恵」(ソフィア)と善き実践を判断する「思慮」(フロネーシス)を含み、教育によって身につくとされる。
一方の「倫理的徳」(習性的徳)は、感情や欲望の統制を伴う理性的選択に関わる徳で、修練や鍛錬を繰り返し実践することで形成される「性格」(エートス)によって身につくとされる。
「倫理的徳」(習性的徳)を身につける際に重要だとされるのが、「中庸」(ちゅうよう、メソテース)である。
これは、行き過ぎや不足の両極端に陥ることなく、正しい〝中間〟(中庸)を見出し選ぶ徳のことである。
たとえば、勇気は、行き過ぎた勇気である「無謀」と、勇気の不足である「臆病」の〝中間〟の状態にあるとき、はじめて徳として成立する。
また、節制は、「放縦」と「鈍感」の〝中間〟の状態にあるとき、はじめて徳として成立する。
このように、プラトンにおいては「想起」さえすればよいとされた徳であったが、アリストテレスにおいては、それだけにとどまらず、継続的に実践することが重視されたのである。
友愛と正義
アリストテレスは、プラトンと同じように、ポリスの理想のあり方について考えた。
アリストテレスにとって、人間は本来、善をめざす存在であるから、人びとが集まり、「最高善」の実現を目的とするポリス(古代ギリシアの都市国家)を持つのは、自然なことであった(「人間は、その自然の本性において、ポリス的動物である」)。
人びとは、そうしたポリスの市民として共同生活を送る。
そのなかで市民同士は、よい関係を築く必要がある。
そのために重要だとアリストテレスが考えたのが、倫理的徳(習性的徳)に含まれる「友愛」と「正義」であった。
アリストテレスによれば、「友愛」とは、〝互いが互いに好意を抱き、幸福になるように願い合い、そのことを互いが知っていること〟である。
一方の「正義」は、ポリスの法に従うという「全体的正義」と、富の分配や公正さをめざす、より日常生活に関わりが深い「部分的正義」から成る。
「部分的正義」は、さらに、働きや功績、能力などに応じて報酬や名誉を与える「配分的正義」と、裁判や取引などにおいて利害や損得を公正に保つ「調整的正義」(矯正的正義)に分けられる。
しかしながら、アリストテレスによれば、もしもポリスの市民たちがお互いに「友愛」を充分に発揮していれば、「正義」は必要ない。
逆に、彼らが「正義」を充分に発揮していても、その場合は「友愛」が必要である。
つまり、アリストテレスは、〝友愛にもとづいて市民が連帯すれば、おのずと正義は実現する〟と考えたのである。
観想と幸福
アリストテレスは、「理想主義」の立場に立った師プラトンとは違い、「現実主義」の立場に立ったものの、〝徳(アレテー)を追究する〟という点ではプラトンと共通していた。
そして、人は、徳の追究を通じて、「幸福」(エウダイモニア)の状態を実現することを最終的な目的としていると考えた。
「幸福」になるには、「理性」(考える力)を充分に働かせる必要がある。
なぜなら、「理性」は、他の生きものには備わっていない人間独自の能力であり、「理性」こそが人間の本質だからである。
そのため、人間にとっては、「理性」を充分に働かせて〝真理〟を求める「観想」(テオリア)の生活を送ることが最大の「幸福」=「最高善」となる。
そうアリストテレスは考えたのであった。
アウグスティヌス
ソクラテス、プラトン、アリストテレスは、倫理の考察において、徳を重視した。
この流れを中世において引き継ぎ、徳に関して目立った主張をしたのが、アウグスティヌス(Augustinus、354-430)である。
キリスト教の教父であったアウグスティヌスは、プラトンの哲学に大きな影響を受けながら、キリスト教の教義を確立した。
特に、神、子(イエス)、聖霊がそれぞれ3つの位格(ペルソナ)でありながら、1つの神格であると唱えた「三位一体論」は有名である。
そのアウグスティヌスによれば、人間は原罪を負っているため、その自由意志は善を行おうとしても、欲望に惑わされ、悪を行なってしまう。
そんな人間の自由意志を善へ導くのは、人間自身の力ではなく、ただ「神の恩寵」だけである。
その「神の恩寵」が教会を通してもたらされれば、人間は幸福になれる。
だから、人間は、パウロ(初期キリスト教の伝道者)が言ったように、「神の正義はイエスの贖い(あがない)によって示された」と信仰し、「神の国の到来と救い」を希望し、「神への愛と隣人への愛」を実践しなければならない。
アウグスティヌスは、これら「信仰」「希望」「愛」を、キリスト教の「三元徳」として、「(ギリシアの)四元徳」の上位に位置づけた。
そして、これら合わせて7つの徳は「七元徳」と呼ばれ、中世において重要な徳として論じられた。
ヒューム
近世において、徳に関して目立った考察を行なったのは、イギリスの哲学者ヒューム(Hume、1711-1776)である。
イギリス経験論の系譜に属するヒュームは、その著作『人性論』(人間本性論)において、感情(情念)は理性に勝るとの立場から、善悪の判断について、理性よりも快不快の感情を重視した。
つまり、徳というのは自分に快を与える心の性質であり、不快(苦)をもたらす性質は悪徳だということである。
〝道徳の根拠は理性ではなく感情にある〟と、ヒュームは考えたのである。
しかし、ヒュームは、〝道徳に理性はまったく必要ない〟と唱えたわけではない。
徳は本来、感情にもとづくが、社会生活を営むのに快不快だけで徳を決めることはできないので、理性にもとづき形成される徳も要請されると考えた。
こうした考えにもとづき、ヒュームは徳を「自然的徳」と「人為的徳」に区別した。
「自然的徳」とは、心に直接、快を与える徳で、「自愛」「(親から子への)情愛」「慈愛」などが、その例として挙げられる。
いわば、人間に本能的に備わる徳である。
一方の「人為的徳」とは、人間によって形成される社会的な徳で、「正義」「正直」などが、その例である。
こうしたヒュームの考え方は「感情主義」と呼ばれ、ソクラテスやプラトンとは逆の立場をとった。
ベンサム
功利性の原理
功利性の原理とは?
倫理学の一分野に「功利主義」(utilitarianism)がある。
「功利主義」とは「功利性の原理」にもとづく思想である。
その「功利性の原理」を最初に唱えたのは、イギリスの哲学者ジェレミー・ベンサム(Jeremy Bentham、1748-1832)であった。
ベンサムの著書『道徳および立法の諸原理序説』によれば、自然は人間を「快楽」(快)と「苦痛」(苦)という2人の主権者に支配させている。
この2人の主権者は、人間の行為や思考をすべて支配し、〝何をなすべきか〟を人間に指示している。
だから、人間は、「快楽」を求め、「苦痛」を避けるという本性を持っていて、そこから逃れることができない。
つまり、「快楽」と「苦痛」こそが、行為の善悪を判断する基準である。
そして、こうした認識を思想の基盤とすることが「功利性の原理」である。
ベンサムは、この「功利性の原理」を、「その利益が問題になっている人びとの幸福を、増大させるように見えるか、それとも減少させるように見えるかの傾向によって、(中略)すべての行為を是認し、または否認する原理」と表現している。
「功利性の原理」に対抗する原理
次にベンサムは、「禁欲主義」と「共感と反感の原理」を取り上げ、「功利性の原理」に対抗する原理だとして批判する。
まず「禁欲主義」とは、苦痛を求め、快楽を避ける原理である。
「禁欲主義」の立場をとる者は、宗教家と道徳家のなかに見られる。
しかし、人間が快楽を避けることができるのは、その快楽のあとに大きな苦痛を味わうことを知っている場合であり、みずから苦痛を求めることができるのは、その苦痛のあとに大きな快楽がもたらされることを知っている場合である。
そのため、「禁欲主義」は、功利主義と同じく、快楽と苦痛を行為の判断基準にしているが、「功利性の原理の誤った適用」をしているのだという。
一方、「共感と反感の原理」とは、行為の善悪に関する判断を自分の感情にのみ基づかせ、その感情がどうして正当化できるのか、理由を示そうとしない原理である。
つまり、この原理は、善悪の判断について「感情」以外の根拠を挙げることがない「名前だけの原理」である。
具体的には、行為の善悪の判断基準を、(1)「道徳感情」に求める者(シャフツベリやハチソン、ヒュームなど)、(2)「共通感覚」(常識)に求める者、(3)悟性に求める者が、ベンサムの批判の対象となっている。
快楽計算
「功利性の原理」は、「快楽」(快)と「苦痛」(苦)を行為の善悪の判断基準にする。
では、快をもたらす行為の選択肢が複数ある場合は、どのように判断すればいいのだろうか?
たとえば今、行為Aを選ぶべきか、行為Bを選ぶべきか迷っているとする。
どちらの行為を選んでも快がもたらされるのだが、ベンサムによれば、こうした場合は、より大きな快をもたらす行為を選ぶべきだという。
そのためには、行為Aと行為Bがそれぞれどれくらいの量の快をもたらすかを知り、比較する必要がある。
こうした必要性にもとづいてベンサムが考えたのが、「快楽計算」である。
ベンサムによれば、快には肉体的な快楽や感覚的な快楽、富や名声を得たときの快、人に親切にしたり神に仕えたりしたときに感じる快など、いろいろな快があるが、それらの快のあいだに質の差はないという。
そう考えれば、それぞれの快の量を計算し、比較することができる。
次に、ベンサムは、「快楽計算」に必要な単位を7つ列挙した。
- 強さ:その快はどれくらい強いか
- 持続性:その快はどれくらい持続するか
- 確実性:その快がもたらされるのはどれくらい確実か
- 近接度:その快はどれくらいすぐにもたらされるか
- 多産性:その快から別の新たな快がどれくらいもたらされるか
- 純粋性:その快に伴う苦はどれくらい少ないか
- 範囲:その快はどれくらい多くの人へ行き渡るか
上記の7つの単位に即して快の総量を出し、同時にもたらされる苦の総和を差し引くことで、その行為の快の量を計算できる。
この計算を行為Aと行為Bについて行なえば、どちらの行為を選ぶべきかを決めることができる。
つまり、「功利性の原理」に従えば、もしも行為Aを選んだほうが、もたらされる快の量が多いのであれば、行為Aこそが、その場合において〝正しく善い行為〟だと言えるのである。
最大多数の最大幸福
ベンサムが唱えた功利主義において、〝正しく善い行為〟とは、「快楽計算」によって快の量がもっとも多い行為のことである。
では、以下のようなケースは、どのように判断すればよいだろうか?
今、あなたの前に、行為Cと行為Dの2つの選択肢があるとする。
行為Cは、「快楽計算」によって導き出される快の量は行為Dよりも多いが、その快がもたらされるのは自分だけである。
一方の行為Dは、快の量は行為Cよりも少ないが、「範囲」という単位を見ると、かなり多くの人びとへ快をもたらすことができる。
「快楽計算」の結果にそのまま従うのであれば、行為Cのほうが選ぶべき〝正しく善い行為〟となる。
しかし、こうした選択は、個人の幸福を促進することはあっても、必ずしも社会全体の幸福を促進することにはならないのではないか?
社会全体の幸福に寄与することを促す命令は、「功利性の原理」には含まれていない。
「快楽計算」のなかの「範囲」という単位が他の単位よりも優位に位置づけられているわけではない。
しかし、ベンサムは、『道徳および立法の諸原理序説』のなかで、「功利性の原理」を「最大幸福の原理」とも呼び、統治の唯一の正しい目的が「最大多数の最大幸福」であると語っている。
実は、ベンサムは、社会は個々人から構成されているのだから、その社会のメンバーであるひとりひとりがそれぞれの快=幸福を追求すれば、その合計がそのまま社会全体の幸福になると考えたのである。
そして、この目的を達するために、統治者は理性と法によって多くの国民により大きな幸福が平等にもたらされるように立法し、統治すべきであると唱えたのであった。
制裁
幸福の増大と害悪の除去によって「最大多数の最大幸福」を実現するための手段としてベンサムが重視したのが「制裁」(サンクション)である。
ベンサムによれば、「制裁」には、自分の不注意のために自然から受ける「自然的制裁」(例:飲みすぎによる二日酔い)、法律によって罰せられる「法律的(政治的)制裁」、世間から非難される「道徳的制裁」、神罰としての「宗教的制裁」があるという。
このうち、彼がもっとも重視したのが「法律的(政治的)制裁」であった。
ベンサムによれば、ある者が他人の幸福を害する行為=犯罪を企てても、「法律的(政治的)制裁」=刑罰によって大きな苦痛がもたらされる結果になることを知れば、その者は犯罪を思いとどまるはずである。
あるいは、もしも犯罪を犯すことを思いとどまることができないとしても、より有害でない犯罪を犯すだけで済むように仕向けることができるはずだ。
そのためには、「法律的(政治的)制裁」=刑罰によってもたらされる苦は、犯罪によってもたらされる快を大きく上回る必要がある。
このようにベンサムは考え、国家や法の機能を重視することによって、個人の幸福と社会の幸福が調和することを説いたのであった。
ミル
ミルとは?
ジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill、1806-1873)は、ベンサムの教え子であった父ジェームズ・ミルによって幼少期から徹底した英才教育を受けて育った。
その影響により、ミルは、功利主義の第一人者となる。
しかし、彼の人間の捉え方は、ベンサムとは異なっていた。
質的功利主義
「快楽」(快)はすべて質に違いはなく、肉体的快楽も精神的な快も同質であるとするベンサムの考え方は、「ブタにふさわしい学説」と批判された。
この批判を受けてミルは、快はすべて同質ではなく、〝質が高い快〟と〝質が低い快〟とに分けられると唱えた。
〝質が高い快〟とは精神的な快のことであり、〝質が低い快〟とは肉体的(感覚的)な快楽のことである。
そして、肉体的な快楽と精神的な快の両方を経験したことがある者ならば、肉体的な快楽よりも精神的な快のほうが〝優れた快〟であることを認め、そちらのほうを選ぶはずだと考えた。
なぜなら、人間には誰でも(程度の差はあるものの)「尊厳の感覚」がそなわっていて、〝自分は動物ではなく人間である〟という自覚のもと、人間としてふさわしい生活態度をとるはずだからである。
そのため、肉体的な快楽と精神的な快という2つの快を比較するのに、それぞれに含まれる快の量を問題にする必要はないと述べた。
ミルは、こうした自身の考え方を、『功利主義』という著作のなかで、「満足したブタであるよりも不満足な人間であるほうがよく、満足した愚か者であるよりも不満足なソクラテスであるほうがよい」と端的に表現している。
こうしたミルの立場は「質的功利主義」と呼ばれている。
「功利主義道徳の理想的な極致」
ミルによれば、人は、自身にそなわった「尊厳の感覚」の働きによって、〝質が低い快楽(快)〟で満足することなく、〝質が高い快〟を求める存在である。
これは見方を変えれば、自分ひとりの幸福を求めるよりも、他人や社会の幸福の増大に寄与する行為をなすことによって〝質が高い快〟を得られるということである。
ここでミルは、〝人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人に施せ〟〝自分を愛するように隣人を愛せ〟というイエス・キリストの教え=「イエスの黄金律」を引き合いに、これこそが「功利主義道徳の理想的な極致」だと主張した。
そして、こうした理想の状態を実現する道として、各個人の幸福と社会全体の幸福とが調和するような社会制度への変革と、「尊厳の感覚」をそなえた高貴な性格を開発する教育の実践を唱えたのである。
他者危害原則
ミルは、『自由論』という著作のなかで、いわゆる「他者危害原則」という考え方について、およそ次のように述べている――
個人として、あるいは集団として、人が誰かの行動する自由に干渉してもよいと言えるのは、自己防衛を目的とする場合のみである。
また、文明社会のなかで、誰かに対して、本人は嫌がっているにもかかわらず権力を行使してもよいのは、他人への危害を防ぐことを目的とする場合のみである〟
これは、他人の目から見て、明らかに〝そうするほうが彼(彼女)のためになるだろう〟とか、〝なんで彼はあんなことをするんだ〟と思えるようなことがあっても、彼を強制して何かをやらせたりやめさせたりすることは正しくないということである。
それが許されるのは、彼の行為が他人に害を及ぼす場合のみだというのである。
こう考えることによって、ミルは、政府や社会が市民に不当に干渉することを防ぎ、自由を保障しようとしたのである。
カント
カントの倫理学とは?
義務を道徳の原理と考えるのが「義務論」である。
その代表は、イマヌエル・カント(Immanuel Kant、1724-1804)である。
ベンサムが創始した功利主義は、善い結果(「快楽」や「幸福」)をもたらす行為こそが道徳的な行為であると考えた。
簡単に言えば、動機よりも結果を重視する考え方であり、「結果説」と呼ばれる。
一方、カントは、善い動機にもとづく行為こそが道徳的な行為であると考えた。
こちらは、結果よりも動機を重視する考え方であり、「動機説」と呼ばれる。
善意志
カントが善い動機として重視したのが「善意志」である。
「善意志」とは、人間に備わるもののなかで無条件に善いと言えるものである。
人間に備わっている〝善いもの〟には、他にも、知力や才能、勇気、権力、富、名誉、健康……など数多くある。
しかし、もしも「善意志」がなければ、それら〝善いもの〟は一転して、当人にとって〝悪いもの〟になりかねない。
たとえば、「善意志」を持たない人間が知力や権力を持ったらどうなるか?
悪知恵を働かせ、高慢になり、他人にとって有害な人間になってしまうであろう。
カントによれば、「善意志」は、〝意志することによって善い〟、つまり〝それ自体で善い〟ものである。
そして、「善意志」は、あらゆる手立てを尽くして最善の結果をもたらそうとするが、たとえ当人の能力不足や外的要因によって思わしくない結果に終わろうとも、「善意志」の善さは決して失われることはないという。
こうした「善意志」を支配するのが理性である。
理性は、「善意志」を生み出し、「善意志」に影響を与える能力であり、それによって理性みずからの使命を達成する。
つまり、人間が〝善い人間〟であることができるのは、理性が人間に「善意志」を備えさせ、その「善意志」を動機として行為することによってのみなのである。
義務にかなう行為/義務にもとづく行為
カントが無条件で〝善い〟とした「善意志」の実質は、〝義務にもとづいて行為する意志〟である。
つまり、「善意志」は、義務だから行なおうとするのである。
ここで言う「義務」とは、〝本人の意志にかかわらず強制されて行なうこと〟では決してない。
〝みずから進んで行なわなければならないこと〟である。
カントによれば、こうした義務に関わる行為は2つに分けられるという。
「義務にかなう行為」と「義務にもとづく行為」である。
「義務にかなう行為」とは、〝義務の求めに合う行為〟である。
一方、「義務にもとづく行為」とは、〝義務だという認識による行為〟である。
両者はどう違うのか?
〝他人に嘘をついてはいけない〟という例で言えば、〝本当のことを話したくはないけれど、ここで嘘をつくと、あとで恨まれそうだから正直に話す〟というのは、結果的に「義務にかなう行為」である。
しかし、〝嘘をついてはいけない〟という義務を認識して従った行為ではないから、「義務にもとづく行為」ではない。
つまり、「義務にかなう行為」のすべてが「義務にもとづく行為」とはならない。
ここからカントは、「義務にもとづく行為」のみが道徳的な行為であると考えたのである。
定言命法
カントは、道徳とは義務に従うことだと考えた。
では、義務はどのようにして知ることができるのであろうか?
たとえば、多くの人がウソの約束をするという状況を考えてみよう。
このような状況においては、互いが互いを信用することができなくなるので、誰も約束しようなどと思わなくなる。
よって、〝約束する〟という行為そのものが成り立たなくなるはずだ。
ということは、〝ウソの約束はしない〟ということが義務だと考えられる。
つまり、ある行為が社会全体に広まり、多くの人びとが同じ行為をするようになったとき、それでもその行為をするべきだと考えられるのならば、その行為は義務だと知ることができるのである。
このことをカントは、次のように言い表した――
「君の意志の格率が、いつでも同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ。」
この言明は、〝自分の行為の原則が常に誰もが従わなければならない原則に合うように行為しなさい〟という意味である。
カントによれば、「普遍的立法の原理」=「誰もが従わなければならない原則」すなわち義務は、〝命令〟の形式として示されるという。
そして、〝(とにかく)~せよ〟という〝命令〟の形式として示される義務のことを、カントは「定言命法」と呼んだ。
ちなみに、〝命令〟には、〝(とにかく)~せよ〟という無条件の命令の他に、〝……ならば、~せよ〟という条件つきの命令がある。
たとえば、〝他人から悪く思われたくないのならば、人に親切にせよ〟というような命令である。
カントは、これを「仮言命法」と呼んだ。
しかし、カントは、仮言命法にもとづく行為は結果的には人のためになるかもしれないが、「利福」(自分の利益)を優先する行為であるため、真の道徳的な行為とはなりえないと考えた。
完全義務と不完全義務
カントは、『道徳形而上学の基礎づけ』という著作のなかで、「定言命法」として命じられる義務を「完全義務」と「不完全義務」に分類している。
「完全義務」とは、「傾向性の利益のための例外を許さない義務」である。
つまり、どんな事情があろうとも、自分の欲求や利益を満たそうとする習慣(傾向性)に陥らずに果たさなければならない義務である。
要は、〝絶対的な命令〟だ。
やって当たり前、やらないと罰せられる。
一方の「不完全義務」とは、(カントによる明確な定義ではないが)〝傾向性の利益のための例外を許す義務〟である。
つまり、事情があれば完全に果たさなくてもよい、あるいは、やれば「功績」として認められるような義務である。
要は、〝努力目標〟だ。
やらなかったからといって、ただちに責任を問われることはない。
ただし、「例外を許す」といっても、その「例外」を行為者自身が勝手に決めていいわけでは決してない。
「例外」として許されるのは、たとえば、溺れている2人のうちの1人しか助けられない状況で、見知らぬ1人より、親しい友人のほうを優先して助けるといった場合である。
ちなみに、カントは、「完全義務」と「不完全義務」を、さらにそれぞれ「自分に対する義務」と「他人に対する義務」の項目に応じて区分し、それぞれの例を示している。
完全義務 | 不完全義務 | |
自分に対する義務 | 自殺しない | 才能を伸ばす |
他人に対する義務 | ウソの約束をしない | 困っている人を助ける |
なお、上記の区分は、カントによれば、絶対的なものではなく、自分が考える義務を整理するための任意なものにすぎないということである。
意志の自律
人間は、ふだん、さまざまな欲求にとらわれ、道徳的な行為を選択できないことが少なくない。
しかし、カントによれば、人間は本来、理性的な存在であるため、欲求にとらわれることなく、理性によって、みずから道徳的な行為を選択することができるという。
つまり、人間は、自分自身の〝内〟に「定言命法」としての道徳法則を知り、それにみずから従うことができるのである。
このことをカントは、「意志の自律」と呼び、「道徳性の最上の原理」であるとみなした。
一方、欲求にとらわれるということは、欲求の対象の内に行為の根拠を見出しているということになる。
つまり、自分自身の〝外〟に道徳法則を求めているということだ。
このことをカントは、「意志の他律」と呼び、「道徳性のあらゆる不純な原理の源泉」だと断じた。
こうしたカントの考えに従えば、幸福を追求する「幸福主義」は、欲求の対象が持つ性質に依存し、「意志の他律」にもとづいているため、道徳原理としては認められないことになる。
カントは、「意志の自律」こそが人間本来の自由だと考えた。
なぜならば、みずから道徳法則を知り、それにみずから従う理性的なあり方のなかに、人間の本来の姿を見出していたからである。
また、こうしたあり方が人間に尊厳を与えるのであり、そのため、人間は他人から手段として扱われてはならないと考えた。
こうした「自律としての自由」という考え方は、現代の倫理学においても有力である。