ページ内にはアフィリエイトを利用したリンクが含まれています。
デカルト
生涯と著作
中世哲学の末期において、ウィリアム・オッカムは、信仰(神学)と理性(哲学)を完全に分離し、理性(哲学)の対象を目の前に存在する個物に限定した。
その結果、物理学や天文学といった新しい学問=自然科学が、哲学のなかから発達した。
この自然科学の目的は、数学的な秩序を持つ(と信じられていた)自然の法則を理性によって解明し、永遠不変の世界像を言い当てることにあった。
これに対して哲学は、自然科学を基礎づけるために、〝人間の認識(主観)は自然や世界という対象(客観)といかに一致するか〟について探究する役割を負うこととなる。
これは、哲学の〝出発点〟を、神から、人間の認識、主観、理性、精神という言葉で呼べるものへ置き換えるということであった。
その本格的な第一歩となったのが、デカルトの哲学である。
デカルト(Descartes、1596?1650)は、フランス生まれで、10歳から18歳までイエズス会のラ・フレーシュ学院で学んだ。
この学校は、自然科学の導入に積極的であったが、その一方でカトリック信仰にもとづき、スコラ哲学もカリキュラムのなかに採り入れていた。
しかし、数学が得意であったデカルトにとって、スコラ哲学やキリスト教神学は厳密さがなく、不確実であった。
そこでデカルトは、学院を卒業後、〝読む書物〟を捨て、「世間という大きな書物」のなかへ飛び込み、さまざまな体験をするが、このことが、哲学史に大きなインパクトを与える〝新しい哲学〟を生み出す原動力となったのである。
デカルトが唱えた哲学は、みずからが著した著作のなかに如実に示されている。
1637年に『方法序説』、1641年に『省察』、1644年に『哲学原理』、1649年に『情念論』と、40歳を過ぎてからの公刊が続いた。
これらの著作はどれも、現代においても重要な哲学書として読み継がれている。
デカルトは、その哲学的な功績と評判のために、晩年、スウェーデン女王クリスティーナから招かれ、家庭教師を務めたが、スウェーデン滞在半年にして、肺炎がきっかけで、この世を去った。
方法的懐疑
デカルトの著作の1つである『方法序説』は、原題を『理性を正しく導き、さまざまな学問において真理を求めるための方法に関する序説』と言う。
つまり、デカルトは、この著作において、哲学のみならず、他のあらゆる学問を基礎づけようとしたのである。
デカルトにとって、スコラ哲学をはじめとする既成の学問は、「真らしく見えるにすぎないもの」を扱うだけの、前例と慣習に束縛された思考にしかすぎなかった。
そのため、あらゆる学問にとっての基礎を新たに最初から打ち立てるためには、不確実だったり疑いの余地があったりするような要素は、あらかじめ排除されなければならなかった。
この目的を果たすためにデカルトが用いた方法が、「方法的懐疑」である。
「方法的懐疑」においてデカルトは、まず、人間の知覚や内的感覚を疑った。
つまり、楽器の音色(ねいろ)や果物の色といった知覚や、頭痛や腹痛がするといった内的感覚は、それがどんなにありありとリアルに感じられるとしても、夢のなかの出来事であるかもしれず、夢は目が覚めてはじめて夢だと気づくものであるから、現実だと思われる感覚はすべて不確実だとしたのである。
次にデカルトが疑ったのは、数学的な真理であった。
つまり、〝2+3=5〟のような知識は確実だと思えるが、しかし、ひょっとしたら神がわれわれを欺(あざむ)き、誤った結論へ導いているかもしれないという可能性は排除できない。
そのため、数学的な真理も、すべて疑いの余地が残るとしたのである。
このようにして疑っていくと、あらゆるものは不確実だったり疑いの余地が残ったりするため、確実なものは1つも残らないように思える。
しかし、ここでデカルトは、たった1つ、確実なものを見出した。
それは、〝すべては夢かもしれない〟〝神に欺かれているのかもしれない〟と疑い、さらに、そうやって疑う自分自身を疑う〝私自身〟である。
つまり、デカルトは、私が疑っている=考えているということは疑いようがなく、そのように考えている私が存在することは絶対確実だという結論にいたったのである。
この結論を、デカルトは、『方法序説』の第4部において、「われ思う、ゆえに、われあり」(コギト・エルゴ・スム)と表現している。
こうして、〝思惟する存在としての自己〟は、デカルトの哲学の〝出発点〟となったのである。
なお、「方法的懐疑」とは、不確実であったり疑いの余地があったりするものを排除し、確実なものを見出すという目的のためだけに〝わざと疑う〟哲学的な方法にすぎない。
デカルトが実際に現実世界を疑わしいと思っていたわけでは決してない。
神の存在証明
方法的懐疑によって絶対確実な〝思惟する存在としての自己〟を見出したデカルトは、次に、この自己を起点に、不確実だとしていったんは〝捨て去った〟世界を再構成しようとする。
しかし、世界を再構成するには、疑いの余地が残る〝思いこみ〟ではない〝確実な知識〟が必要となる。
そして、〝確実な知識〟であるためには、〝確実な根拠〟によって保証されなければならない。
つまり、デカルトは、方法的懐疑においては、知覚や内的感覚はもちろん、数学的な真理であっても、神によって欺かれている可能性があるかぎり、それらは不確実だとしたが、絶対確実な思惟する自己が見出された今、その自己にとって〝はっきり、くまなく〟=「明晰判明」(めいせきはんめい)に知ることができ、しかもその「明晰判明」さを保証する根拠があれば、その知識は確実だと考えたのである。
そのためにデカルトが『省察』のなかで行なったのが、「神の存在証明」であった。
われわれはさまざまな観念を持っているが、そうした観念のなかには神という観念がある。
その神は〝無限な存在〟であるが、有限から無限は生じないのであるから、有限な存在である人間から〝無限な存在〟という観念が生じることはない。
とすると、神という観念は、人間以外のところから生じたという他はない。
つまり、神が存在するからこそ、〝無限な存在〟である神という観念が生じたのである。
一方、われわれのなかに生じる観念には、必ずその原因がある。
当然、神という観念にも原因がある。
神は〝完全な存在〟だともされているが、この観念は不完全なものや無から生じたものではない。
というのも、原因のなかには結果(観念)よりも多くの(少なくとも同じ程度の)実在性や完全性が含まれていなければならないが、もしも結果(観念)のほうが原因よりも多くの実在性や完全性を含むとすると、結果(観念)のなかに含まれる実在性や完全性の一部は無から生じたことになり、これは〝無からは何も生じない〟という明晰判明な理解に反するからである。
ということは、完全な存在という神の観念は、不完全な存在である人間から生じたのではない。
つまり、この観念は、完全な存在である神自身によって、不完全な存在であるわれわれ人間に生まれつき与えられた「生得観念」なのである。
さらに、神が〝完全な存在〟という本質を持つならば、そこには〝現に存在する〟という性質が属している。
これは、三角形の観念に、内角の和は2直角であるという性質が不可分に属しているのと同じである。
よって、〝完全な存在〟である神において本質と存在は不可分なのであるから、神は現実に存在するのである――
こうした「神の存在証明」は、のちに「神の存在論的証明」と呼ばれるようになるが、このようにしてデカルトは、神の存在を〝証明〟してみせたのである。
神の誠実性と明証性の規則
デカルトは、神の存在を〝証明〟したことにより、方法的懐疑における〝神が欺いているのかもしれない〟という疑いを一気に晴らすことができた。
なぜなら、欺くということは、悪意や弱さという不完全性によるものであり、それは神の完全性と矛盾するからである。
〝神は人間を欺く存在ではない〟――こうした神の性質を「神の誠実性」と呼ぶ。
さらに、デカルトは、もしもわれわれ人間が明晰判明に知覚したり理解したりするものが誤りであるならば、それは人間を創造した神が誠実ではないことになり、神の誠実性と矛盾するため、「私が明晰・判明に理解するものはすべて必然的に真である」と結論した。
これを「明証性の規則」と呼ぶ。
このようにしてデカルトは、世界を再構成するために必要な、〝確実な根拠〟に保証された〝確実な知識〟の基盤を手に入れたのであった。
主観/客観図式
デカルトは、「神の誠実性」と「明証性の規則」という〝確実な根拠〟を見出したことによって、〝思惟する私が明晰判明に理解した対象は正しく認識されていると信頼してよい〟と結論した。
ここからデカルトは、〝物体や数学的な真理といったすべてのものは思惟する自己=「主観」の認識対象=「客観」であり、そのため、思惟する自己がすべてのものの存在根拠である〟と考えた。
こうした自己と世界の捉え方を「主観/客観図式」と呼ぶ。
そして、この主観/客観図式は、観察と実験による自然科学を発達させる大きな力となった。
その背景には、主観の本質を「思惟」(考えること)とする一方、物体の本質を〝一定の体積を持ち、空間を占めるもの〟=「延長」として計測可能な対象だと捉える、デカルト独自の見方があった。
こうした見方は「幾何学主義」と呼ばれる。
このように、主観/客観図式は、自然科学の発達を促したが、反面、大きな問題をも生み出した。
それが「心身問題」である。
心身問題
デカルトが見出した〝絶対確実な存在〟とは、自己の身体をも含む自己では決してなく、あくまでも〝思惟する自己〟であり、身体は自己の身体といえども、〝思惟する自己〟が認識する対象にしかすぎなかった。
つまり、デカルトにとって身体とは、認識対象として、物体と同じカテゴリーに属するものであり、主観に対する客観なのであった。
そして、人間の身体は、精巧な機械のような物体だと考えられた。
こうした考え方を「人間機械論」と言う。
しかし、人間の心身を別々のものと捉えると(「心身二元論」)、不都合な問題が生じる。
つまり、恥ずかしくて顔が赤くなる、ストレスで胃が痛くなる、体調が悪くてテンションが上がらない……というような、心と身体の関連を説明できなくなってしまうのである(「心身問題のアポリア」)。
この問題に対処するため、デカルトは、『情念論』において、人間の脳のなかには、心と身体が相互作用する器官があると想定し、その器官を「松果腺」(しょうかせん)と名づけた。
しかし、たとえ松果腺を想定しても、身体の一部である松果腺において、どのようにして心と身体は相互作用するのかという疑問がふたたび起きる。
これに対して、デカルトは、心と身体の相互作用は、〝日常的で明証的な経験〟によってしか知ることができない「原始的概念」であり、心身二元論によっては知ることができないと述べた。
結局、心身問題は〝解決〟することなく、その後の哲学史における大きなトピックとなっていった。
スピノザ
実体、属性、様態
デカルトの哲学は、心(精神)と身体(物体)を別々の実体とすることにより心身問題をもらたしたが、その後、この難問を〝解決〟しようとする哲学が続々と現れた。
そうした哲学を唱えた1人に、スピノザ(Spinoza、1632-1677)がいる。
デカルトは、実体とは他の何ものにも依存しないものだと考え、精神と物体を実体として認めた。
しかし、精神と物体という2つの実体があるとすると、実は互いの存在をあらかじめ前提していることになり、実体の定義に反することになる。
そこでスピノザは、実体はただ1つであるという〝出発点〟から自身の哲学を構築していった。
スピノザは、主著『エチカ』において、次のように述べる――
「自己原因(カウザ・スイ)とは、その本質が存在を含むもの、つまり、その本性が存在するとしか考えられないもののことである」(「定義1」)
「実体とは、それ自身において存在し、それ自身によって考えられるもののことである。つまり、その概念を形成するために他のものの概念を必要としないもの」である(「定義3」)
これは、実体とは、他の存在に依存したり影響されたりしない、自分自身にしか根拠を持たない(「自己原因」としての)存在であり、他に依存しないのであるから、必然的に唯一の存在である。
つまり、スピノザにおいて、実体とは「神」のことなのであるが、この神はさらに無限であり、すべての存在を部分として包み込み、世界(宇宙)に遍在する存在なのであった。
ちなみに、神が世界(宇宙)に遍在するという考え方を「汎神論」と言う。
さて、神が唯一の実体であるとすれば、デカルトにおいて実体とされた精神と物体はどうなるのか?
スピノザによれば、精神と物体は、実体そのものでは決してなく、実体=神の「属性」である。
つまり、精神と物体は、そもそもが同一の実体に属している性質であり、人間の理性が実体についてその本質を構成していると認識するもの(1つの実体をそれぞれ別の側面から見たもの)にすぎないのである(「定義4」)。
こうしてスピノザは、デカルトの心身問題を克服しようとしたのであった。
なお、スピノザの哲学には、「実体」「属性」という概念と並んで、「様態」という概念がある(「定義5」)。
これは、神の、その時々における(一時的な)個々の表れのことである。
そのため、様態は有限で変化し、人間の目には偶然に見えることがある。
たとえば、人間が〝世界〟という言葉で理解しているものは、実は神の様態なのであった。
心身平行論
スピノザにおいては、実体はただ神のみであり、精神と物体(身体)は神という1つのものを別々の側面から捉えて見たものにすぎないのであった。
そして、精神と物体(身体)は相互に平行していて対応するが,両者は互いに影響を及ぼし合うものではなく、物的(身体的)事象はあくまで他の物的(身体的)事象とのみ影響しあい,心的事象は他の心的事象とのみ影響しあうのだとされた。
このような、精神と物体(身体)を別系統として捉える考え方を「心身平行論」と呼ぶ。
精神と身体が別系統のものであって、両者に相互作用が認められないのだとすると、精神が身体に影響を及ぼすことは考えられないのだから、人間が何かを意志して何かを行なうという考え方そのものが成立しないことになる。
コップを手に取るという行為を例に挙げると、われわれはふつう、(1)コップを手に取ろうと意志する、(2)意志によってコップに手を伸ばす、(3)実際にコップを手に取る、というプロセスを思い描く。
ここには、〝自由意志を原因として行為をなす〟という考え方がある。
しかし、スピノザの心身平行論によれば、コップを手に取ろうとする意志と、実際にコップを手に取る行為とのあいだには因果関係はなく、両者はどちらも神を原因として同時に平行して起こった事象にすぎない。
つまり、スピノザは、行為の原因としての自由意志を否定したのである。
自由意志の否定
自由意志の否定は、スピノザのエチカ=倫理学の基礎となった。
人間に自由意志はないのであるから、われわれが何か不合理なことや不都合なことをこうむったとき、その行為の原因を当の行為者の意志に求めることはできない。
すべてを「永遠の相のもとに」=神の視点から見れば、すべては神の必然性の一部として起きた(起きる)のであるから、すべてを肯定し、赦(ゆる)すことしかできないのである。
そして、すべてを肯定し、赦すことができたとき、人は神を愛すことになり、また、神からも愛されることになる。
神はすべてであり、人は神の一部だからである――
スピノザは、ユダヤ人であり、ユダヤ教団に属していたが、汎神論にもとづく特異な哲学を唱えたために、不敬虔(ふけいけん)であるとして破門され、ユダヤ人社会から追放された。
しかし、哲学史においては、神を核とする一元論の体系が、のちのドイツ観念論の哲学者たちに高く評価され、大きな影響を与えることとなったのである。
ライプニッツ
モナド
デカルトは、精神と物体(身体)という実体を規定したが、両者がどのように関連するのかという難問=心身問題を残した。
スピノザは、デカルトの実体概念をさらに押し進め、実体と呼べるものは無限な神だけであり、精神と物体(身体)は神において関連していると唱え、心身問題を克服しようとした。
しかし、実体を1つだとすると、今度は、世界の多様性を説明しにくくなる。
こうした課題を克服しようとしたのが、ドイツの哲学者ライプニッツ(Leibniz、1646-1716)である。
スピノザは、唯一にしてすべてである神こそが実体であるとしたが、これに対してライプニッツは、すべては無数にある極小の実体から成り立っていると考えたのである。
古代エジプトや古代ギリシアで発達したユークリッド幾何学においては、線は横に運動すると面になり、面を逆方向に縮小させると線になると考える。
つまり、面は、線の集合体なのである。
しかし、ライプニッツは、面を縮小させていっても線に還元させることはできず、あくまでも無限小の面になると考えた。
これは、面をどんなに分割していっても同じことで、決して消滅してしまうことなく、面としての性質を保ちつつ、それ以上は分けられない無限小の面になるということである。
ライプニッツは、こうした考え方を世界(宇宙)の説明にも採用し、ある性質を持ち、それ以上決して分割することができない極小の実体が存在すると想定した。
これが「モナド」である。
ライプニッツの著作『モナドロジー』によれば、「モナド」は、無数に存在し、世界や宇宙のすべてのものを成り立たせている〝点〟のような存在である。
しかし、「モナド」は、原子(アトム)のような空間的な存在ではなく、非空間的・非物質的な存在であり、むしろ精神的な存在に近く、自身の性質を持っているという。
しかも、1つの「モナド」は、他の「モナド」とは一切影響しあわず(「モナドには窓がない」)、独立している。
このことをライプニッツは、『モナドロジー』のなかで、「モナドは、そこを通って、あるものが出入りする窓を持たない」と表現している。
このように「モナド」は、自身の内に一切の性質や可能性を含み込んでおり、そのため、世界や宇宙における変化や運動による多様性は、すべて「モナド」の内部から「表象」としてもたらされる。
こうした側面を捉えて、ライプニッツは、〝「モナド」は、宇宙全体を反映する「欲求」を持ち、過去の記憶を含みつつ、新たに多様な世界を映し出す(「表象する」)「宇宙の生きた鏡」である〟と述べている。
さらに、ライプニッツによれば、「モナド」には1つとして同じものはなく、それぞれの「モナド」はそれぞれに宇宙を映し出すという。
そして、「モナド」には表象の程度によって序列があり、無意識的な「微少表象」をするモナドは「真裸の単子」(物質)、知覚や記憶を持つモナドは「魂」(動物の心)、反省によって自我意識を持ち、抽象的な概念を理解するモナドは「精神」だと考えられた。
予定調和
ライプニッツは、モナドが世界(宇宙)を構成する実体だと考えたが、モナド同士は互いに影響しあわないとした。
しかし、それだけでは、それぞれのモナドがそれぞれに宇宙を「表象」する(映し出す)ことによって生じる多様性は説明できるものの、世界や宇宙の秩序が説明できない。
もしも、相互に影響しあわないモナドがそれぞれ〝好き勝手に〟世界や宇宙を表象するとしたら、そこには無秩序しか存在しなくなる。
この点についてライプニッツは、それぞれのモナドのあいだに調和が成り立つのは、神がそのように定めているからだと考えた。(※1)
つまり、われわれ人間の目には偶然に映るようなことでも、そこにはモナドのなかにあらかじめ組み込まれた調和が実現しているのであり、逆に言えば、モナド同士が互いに調和しているのは、それぞれのモナドが神によって組み込まれた調和に従って世界や宇宙を映し出しているからなのである。
こうした考え方を「予定調和」と呼ぶ。
ちなみに、ライプニッツにとって、神とは、〝最高度に覚醒しているモナド〟であった。
心身問題の解決
ライプニッツが唱えた予定調和は、デカルト以来の心身問題を〝解決〟する考え方でもあった。
ライプニッツは、『モナドロジー』のなかで、およそ次のように述べている――
ここに2つの時計があり、互いに完全に同じ時刻を刻んでいるとする。
これを可能にするには、どんなに時が経とうとも、互いに完全に同じ時刻を刻むと確信できるほど充分な技術を使って精巧に2つの時計をつくることだ。
そうすれば、2つの時計は、直接には何の作用もしあわないのに、見た目は互いに関係しあっているかのように完全に一致する。
これは、製作者が優秀であればあるほど、実現可能性が高まる。
ましてや、制作者が神であれば、なおさらだ。
それでは、2つの時計を、精神と物体に置き換えてみるとどうなるか?
当然ながら、この予定調和が、精神と身体とのあいだにも成り立つと考えられる。
ライプニッツのモナド論と予定調和説は、この他にも、自然科学とスコラ学をどう調和させるか、また、奇蹟や恩寵、自由意志といったキリスト教の信仰上の問題をどう解釈するかといったそれまでの課題を〝解決〟していった。
そのため、ライプニッツは、それまでのギリシア哲学を整理・体系化したアリストテレスにちなんで、「近世のアリストテレス」と呼ばれることもある。
なお、デカルトに始まり、スピノザ、ライプニッツと継承されていった、理性に従った思考を重んじる哲学の流れを「大陸合理論」と呼ぶ。
ロック
イギリス経験論とは?
デカルト、スピノザ、ライプニッツと続いた大陸合理論に対して、イギリスでは別の哲学の潮流が生まれた。
ロック、バークリー、ヒュームと続く「イギリス経験論」である。
「イギリス経験論」は、人間の認識について理解するために、デカルトが明晰判明で確実な観念を哲学の〝出発点〟としたのに対して、視覚や触覚などの「感覚」や自分自身の心の「反省」による経験を〝出発点〟とした。
生得観念の否定とタブラ・ラサ
イギリス経験論の先駆者であるロック(Locke、1632-1704)は、『人間知性論』において、まず、人間の認識が生まれつき備わった観念や能力に依存しているという生得観念の考え方を否定する。
生得観念の考え方によれば、正義の観念や良心といった道徳的な原理は、生まれつき人間の心に植えつけられている。
だから、人間は道徳的な判断ができるのだとされる。
しかし、もしも道徳的な原理が生まれつき備わっているのであれば、なぜ平気で道徳に背(そむ)くようなことをする人びとが存在するのか?
人間に生得観念が備わっているという証拠など、どこにもない。
だとすれば、そもそも人間には生得観念などないのではないか?
こうした疑問を抱いたロックは、〝人間の認識は、生得観念によるのではなく、経験によって得られる観念による〟と考えたのであった。
つまり、われわれが白さ、硬さ、甘さ、思考、運動、人間、ゾウ、国家……といったさまざまな観念を持つのは、生まれつきの観念によるのではなく、たとえて言えば、文字がまるで書かれていない「タブラ・ラサ」(白紙)に、数多くの知識や推論が書き込まれていった結果なのだという。
このように考えたロックは、続いて、経験や観念について考察していった。
単純観念/複合観念と一次性質/二次性質
人間の認識は経験にもとづくと説いたロックは、次に、経験から観念が生み出されるプロセスについて論じている。
ロックによれば、経験は2種類に分けられる。
1つは、目、耳、鼻、舌、皮膚といった感覚器官に外界の事物が作用することによって生じる「感覚」である。
この感覚によって、われわれは、〝白い/黄色い〟〝熱い/冷たい〟〝柔らかい/硬い〟〝甘い/苦い〟といった観念を得る。
もう1つは、心が自分自身の心を顧(かえり)みて、考えたり、疑ったり、信じたりする「反省」である。
この反省も観念の源泉だとされる。
人間は、この世に生まれてからしばらくのあいだは感覚から生じる観念を持つようになり、その後、自分自身の心の働きを反省するようになるのだという。
次に、ロックは、観念について論じる。
ロックによれば、観念は2種類に分けられる。
感覚と反省によって生じる「単純観念」と、複数の単純観念が比較されたり、合成されたり、抽象されたりすることによって生じる「複合観念」あるいは「複雑観念」である。
〝白い〟〝甘い〟〝ざらざらする〟といった単純観念が合成され、〝砂糖〟という複合観念が生じるというように考えれば、わかりやすいだろう。
さらに、ロックによれば、単純観念とひと口に言っても、たとえば、視覚がそれぞれ、〝丸い〟と受け取った観念、〝大きい〟と受け取った観念、〝白い〟と受け取った観念は異なるという。
なぜなら、大きさ、形、数、位置、運動、固さといった単純観念は、感覚の対象(物体)に備わった性質=「一次性質」であるのに対し、色、音、味といった単純観念は、対象(物体)が感覚器官に働きかけて生み出される主観的な性質=「二次性質」であるからだ。
このように考えたロックにとって、人間の認識は「観念の一致/不一致」に依存していたが、そのあり方には差があった。
もっとも確実なのは、2つの観念が一致するか否(いな)かを直接的な感覚によって把握できる認識=「直覚的認識」である。
次に、2つの観念が一致するか否かを別の観念を持ち出してはじめて間接的に把握できる認識=「論証的認識」は、論証の各段階において用いる観念が直接的な感覚によるものであれば、確実だと言える。
しかし、外界における物体は、存在を否定できないが、感覚的にしか認識できないため(「感覚的認識」)、もっとも確実でないとされた。
ロックは、神、精神、物体の3つを実体として認めていたが、精神は直覚的認識によって、神は論証的認識によって、それぞれ確実に存在すると言えるものの、感覚的認識の対象となる物体については認識の確実性が低いため、実体としては曖昧(あいまい)な存在であると考えられた。
このようにしてロックは、人間の認識は経験によること、認識には確実性において差があることを唱え、経験にもとづかない認識による主張を排除して知の範囲を定め、経験的な学問の基礎を確定したのである。
バークリー
ロックの経験論をさらに押し進めたのが、バークリー(Berkeley、1685-1753)である。
バークリーは、ロックが唱えた一次性質と二次性質は区別することができず、感覚的認識によってのみ把握できる物体を実体と考えることはできないと主張した。
バークリーは、『視覚新論』のなかで、ロックが言う一次性質は成り立たないと述べている。
たとえば、2人の人が前後に離れて立っているとき、後ろに立っている人が小さく見えるからといって、その人のほうが背が低いと何の疑念もなく判断する人はいないだろう。
後ろに立っている人のほうが遠くにいるのだから、「奥行き」や「遠近」によって小さく見えるのだと、ふつうは判断する。
こうした「奥行き」や「遠近」は、視覚だけの問題のように思えるが、バークリーによれば、それは触覚の問題でもあるという。
つまり、ある人が自分と2人とのそれぞれの距離を測るためには、横から見るという視点も必要だが、この視点は、〝いま実際に2人を見ている私の視点〟からはとることができない。
このとき、対象=物体との距離を測るためには、どれだけ歩けば対象に行き着くか、対象である物体に触れたらどんな感触がするかと推測することが必要になってくる。
あるいは、実際にそうしたことを行なう場合は、その行為に伴う身体運動感覚や筋肉の感覚、触覚から距離を測ることになる。
このように考えてみると、物体そのものに備わった性質=一次性質というものはなく、すべては、物体が感覚器官に働きかけて生み出される主観的な性質=二次性質となる。
つまり、心が知覚する観念はすべて主観的なものなのだから、心を離れて存在する物体はなく、知覚があってはじめて物体(という観念)は存在することができるのである。
こうした見方を、バークリーは『人知原理論』のなかで、「存在するとは知覚されることである」と表現している。
このようにバークリーは、物体を実体としては認めなかったのであるが、一方で、知覚する精神は能動的な存在だとして、その実体性を認めた。
そして、精神については、次のように考えた――
精神は、その意志によって、実際にはありもしないことをさまざまに想像することができる。
しかし、そうした精神であっても、実在しないものを勝手に実在するものへとつくり変えることはできない。
たとえば、月や山の観念は、精神が勝手につくり出せるものではない。
だとすれば、精神が勝手につくり出せない受動的な観念は、〝より大きな精神〟に由来すると考えられる。
その〝より大きな精神〟こそ、神である。
このようにしてバークリーは、物体の実体性を否定する一方、神、精神は実体として認めたのであった。
ヒューム
印象と観念
ロック、バークリーと続いたイギリス経験論のトリを飾るのが、ヒューム(Hume、1711-1776)である。
ヒュームは、ロックと同じように、人間の本性は知覚にもとづく経験に根ざしていると考えたが、ロックやバークリーよりもさらに論理を徹底させた。
ヒュームが著した『人性論』(人間本性論)によれば、人間が知覚した対象は、2つに分けられるという。
1つは「印象」(インプレッション)で、これは、外界からの刺激によってもたらされる表象である(〝このリンゴは赤い〟)。
印象は、感覚器官によってもたらされるため、本人にとって疑うことができない〝力強い知覚〟である。
もう1つは「観念」(アイデア)で、これは、いったん消え去った印象を記憶や想像によって反復することで現れる表象である(〝あのリンゴは赤かった〟)。
観念は、印象にもとづくとはいえ、感覚器官から直接的に与えられる表象ではないため、「印象の色あせた映像」のようなものである。
そして、人間の知は、こうした印象や観念がさまざまに結合したり加工されたりすることによって形成されていくのである。
ヒュームによれば、観念の結合や加工の背景には、〝想像する〟という働きが見られるという。
〝想像する〟働きの原動力は、「観念連合」である。
「観念連合」とは、ある観念がおのずと別の観念を思い起こさせる心的現象のことである。
リンゴと聞いてウィリアム・テルや青森県を思い起こす場合が、このケースに当たる。
さらに、ヒュームによれば、観念連合は3つの原理にもとづくという。
1つめは「類似」で、互いに似た観念が想像によって結合し、一方の観念からもう一方の観念へ移行することである。
2つめは「接近」で、時間や空間において近い関係にある複数の観念が結合することである。
3つめは「因果」で、類似の経験をした場合、ある知覚と別の知覚に原因と結果の関係があると想像し、結合させることである。
このようにしてヒュームは、印象から複雑な観念が形成されていく認識のプロセスについて考察していったのであるが、こうした考え方は、自然界に見られる「因果」や、スコラ哲学以来の実体の「同一性」を否定することとなった。
因果の否定
認識の源泉を知覚にしか認めないヒュームは、哲学史上まれに見る革新的・破壊的な学説を提示した。
その1つが、因果の否定である。
たとえば、われわれは〝火に近づくと熱い〟という観念を持っている。
なぜなら、〝火の温度が高いことが原因となって熱く感じるという結果がもたらされる〟、すなわち、〝火と熱さのあいだには因果関係がある〟と考えているからである。
ここで、火の温度が高いことは、温度計で測ればすぐにわかる。
また、火のそばでは熱く感じることは疑いようがない感覚である。
しかし、だからといって、〝火に近づくと熱い〟という因果関係が成り立つとは言えない、とヒュームは言う。
なぜなら、〝火に近づくと熱い〟という観念は〝火に近づいたから熱い〟と言い換えられるが、この記述のなかの「から」を知覚することは決してできないからである。
それでは、2つの事象をつなぐ因果性を知覚できないにもかかわらず、なぜ人はそこに因果関係があると思ってしまうのであろうか?
ヒュームによれば、因果関係を構成する要素は3つあるという。
火に近づくという「接近」、火に近づくと続いて熱いと感じる「継起」、火に近づくと例外なく〝必ず〟熱いと感じる「必然的結合」である。
ここでヒュームが言う「必然的結合」とは、もちろん理性による洞察にもとづくものではない。
火に近づいて熱いと感じる経験を何度か繰り返すと、それが「習慣」(カスタム)となり、火と熱さのあいだに強い結びつきがあるという「信念」(ビリーフ)が生じる。
そのため、人は、火と聞いただけで熱いと連想するようになり、火に近づくという事象と熱く感じるという事象とのあいだに因果関係があるということが必然のように思えてくるというのである。
このようにしてヒュームは、因果があるように思えるのは人間の主観的な「心の決定」によるのであって、決して自然に備わった性質ではないと主張した。
同一性の否定
ヒュームが提示した哲学史上まれに見る革新的・破壊的なもう1つの学説が、同一性の否定である。
ヒュームは、因果があるように思えるのは人間の主観的な「心の決定」によるのであって、決して自然に備わった性質ではないとしたが、物体や事物、さらには自我の同一性すらも人間の想像の産物だと唱えた。
たとえば、リビングルームにあるイスは、前の日も今日も明日も、変わらず定位置にあり続けているように見える。
しかし、住人がリビングルームにいなかったり、外出していたりするあいだ、彼はそのイスを決して見てはいない。
ひょっとしたら、目を離している隙に、誰かがイスをこっそり取り替えているかもしれない。
それなのに住人は、そのイスがずっと同一のイスであると思っている。
あるいは、ここに1艘(そう)の船があるとする。
その船は、帆(ほ)を張る柱や甲板、縄梯子(なわばしご)といったさまざまな部品からでき上がっている。
しかし、それらの部品は、古くなったり傷んだりすれば、他の部品に交換される。
そのため、5年前の船と現在の船、10年後の船は、同一の船ではないはずである。
しかし、他の部品に交換されても、船全体の構造は変わらないため、同じ1艘の船だと認識される。
このように、イスや船の知覚に断絶があるにもかかわらず、それらに同一性を認めるものは、ヒュームによれば、人間の想像力である。
同じことは、自我についても言える。
自我=私は、日々、さまざまなことを見たり、聞いたり、感じたりしており、こうしたことを生まれてから死ぬまで繰り返している。
つまり、私という存在は、現れては消える知覚や感情にしかすぎないのである。
それなのに自我が存在すると思うのは、ひとえに想像力のためである。
そのため、自我とは本来、たんなる「知覚の束」にしかすぎないのである。
ここからヒュームは、「われわれが人間の心に帰する同一性は、虚構によるものにすぎない」と結論づけた。
こうしてヒュームは、経験論の立場を極限まで押し進め、これまで自明の真理だと思われていた因果や同一性といった観念を否定した。
こうしたヒュームの考え方に大きな衝撃を受けたカントは「独断のまどろみから醒(さ)まされた」と述べ、自身の哲学のモチベーションとした。
そして、ヒュームの懐疑論は、そのカントの理性批判の形成に大きな影響を与えたのであった。
カント
生涯と著作
近世哲学は、デカルト、スピノザ、ライプニッツに代表される大陸合理論と、ロック、バークリー、ヒュームに代表されるイギリス経験論に大別される。
大陸合理論は、理性によって、実体を基盤とした世界像を精緻(せいち)に構成し、自然科学を基礎づけようとした。
一方のイギリス経験論は、すべてを感覚にもとづく経験から解釈し、大陸合理論における実体を否定したばかりか、自然科学における認識すら確実ではないと主張した。
西洋哲学においては、こうした2つの相反する哲学の流れを〝統合〟する必要があった。
この〝統合〟の大仕事に挑んだのが、カント(Kant、1724-1804)である。
カントは、ドイツのケーニヒスベルクに生まれ、ケーニヒスベルク大学へ進学し、卒業したのちは7年間の家庭教師生活を経て、1755年にケーニヒスベルク大学の講師として採用され、1770年に同大学の教授となっている。
上記の経歴からもわかることができるように、カントは一生涯、ケーニヒスベルクの地を離れることはなかったと言われている。
カントが学んだケーニヒスベルク大学は「ライプニッツ=ヴォルフ学派」の考え方が盛んで、カント自身も、その学派の影響を受けた。
「ライプニッツ=ヴォルフ学派」は、ライプニッツの哲学をヴォルフが独自に再解釈した合理論を奉じ、理性を万能とする考え方をしていたらしい。
しかし、カントは、ヒュームによって「独断のまどろみ」から目を醒(さ)まされ、逆に、ライプニッツ=ヴォルフ学派の考え方を「独断論」と呼んで批判するようになった。
つまり、カントは、理性万能主義の立場を捨て、理性を経験(論)によって批判的に捉え直すという試みを始めたのである。
この試みこそが、大陸合理論とイギリス経験論のそれぞれの立場を〝統合〟することになった。
カントは多数の著作を著したが、〝統合〟の試みは、『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』という「3批判書」にほぼ集約される。
『純粋理性批判』では人間の心の働きのうちの認識が、『実践理性批判』では行為と意志が、『判断力批判』では感情が、それぞれ扱われている。
あるいは、真・善・美が、それぞれ扱われていると言ってもいい。
これら3批判書が、カント哲学を知るうえでの最重要書となる。
この他、カントの主要な著作には、『啓蒙とは何か』『世界市民という視点からみた普遍史の理念』『人類の歴史の憶測的な起源』『万物の終焉』『永遠平和のために』(以上5著作は、光文社古典新訳文庫の『永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編』に収録)などがある。
理性の限界
カントによれば、それまでの哲学は、感覚できる自然、世界を超えた存在(実体)、抽象的な概念について、理性の力のみで答えようとしてきた。
しかし、理性は本来、こうした問いに答えることができないという。
では、なぜ人間は、こうした「形而上学的問い」に答えようとするのだろうか?
それは、人間には〝なぜ?〟と問う傾向が備わっているからである。
そこでカントは、〝理性は何をどこまで認識することができるのか?〟という問題意識のもと、理性の限界について探究していく。
その探究を記したのが、『純粋理性批判』である。
形而上学的問いには、〝神は存在するのか?〟〝世界は有限か?〟〝人間に自由はあるのか?〟などがある。
しかし、カントによれば、理性がこうした問いに答えようとすると、〝Yes〟〝No〟どちらの答えも導き出せてしまうという。
たとえば、〝世界は有限か?〟という問いについて考えてみよう。
この問いについて、「世界は時間において始まりを持たない」と仮定した場合、それまでの時間の流れのなかのどの時点を取ってみても、無限の時間が流れ去っている。
無限というのは決して完結しないことであるが、現在においては、その時点で時間は完結している。
ということは、〝無限に流れ去る時間〟というのはありえないことになり、〝世界は時間において始まりを持つ〟と結論づけられる。
一方、「世界は始まりを持つ」と仮定した場合、始まりの前には空虚しかなかったことになる。
しかし、空虚から何かが生じるということはありえない。
とすれば、始まりの前には〝何か〟がなければならず、その〝何か〟の前にも〝別の何か〟がなければならない。
したがって、〝世界は(過去の時間という観点から)無限である〟と結論づけられる。
上記の問いは、相反する主張がどちらも成り立たない例だが、逆に、〝人間に自由はあるのか?〟という問いにおいては、相反する主張がどちらも成立してしまう。
このように、ある主張がもう一方の相反する主張を退(しりぞ)けることができず、どちらも成立する、あるいはどちらも成立しない状態となり、決着がつかないことを「アンチノミー」(二律背反)という。
カントは、このようにして、形而上学的問いについて理性のみで答えようとすると、必ずアンチノミーの状態に陥ることを示した。
そして、形而上学的問いは理性が扱うべき問題ではなく、信仰の問題だとしたのである。
ア・プリオリな総合判断
すでに見たように、理性がその限界を超えて形而上学的問いに挑むと、必ずアンチノミー(二律背反)が生じた。
ではなぜ、これまでの哲学は、アンチノミーに陥らざるをえない形而上学的問いに挑んできたのであろうか?
それは、カントによれば、「どうすればア・プリオリな総合判断は可能であるのか?」という課題に気づかなかったからだという。
「ア・プリオリ」というのはラテン語で、〝あらかじめ〟〝先立って〟と訳すことができ、ここでは〝経験に先立つ〟〝生まれつき〟という意味で用いられている。
また、「総合判断」というのは、主語を分析しても述語が導き出せない判断のことである。
主語を分析すれば述語が導き出せる判断は「分析判断」と呼ばれ、〝物体はすべて延長を持つ〟という判断のように、物体という主語(概念)を分析すればおのずと延長(拡がり)という述語(概念)が含まれていることがわかる判断のことである。
そのため、分析判断に経験は必要ない。
しかし、総合判断は、経験を経なければ成り立たない。
たとえば、〝薔薇(ばら)は赤い〟と判断する場合、薔薇という主語をいくら分析しても、そこから〝赤い〟という述語は導き出せない。
なぜなら、薔薇には、赤い薔薇もあれば、黄色い薔薇、白い薔薇もあるからだ。
したがって、〝薔薇は赤い〟という判断は、薔薇に関する具体的な経験にもとづく判断(「経験判断」)であり、総合判断だということになる。
このように、カントは、「経験判断は一般に総合判断である」と述べ、〝総合判断=経験判断〟とみなしている。
では、ア・プリオリな総合判断、すなわち、〝経験に先立つ経験判断〟というのは、いったいどういう意味なのであろうか?
それは、〝経験にもとづく判断(認識)は、ア・プリオリな認識能力なくしては成り立たない〟という意味である。
もしも総合判断にア・プリオリな認識能力が関わらないとすれば、人は各人の多様な経験によってのみ判断するため、ある人にとっては薔薇は赤く、別の人にとっては薔薇は白いものとなり、普遍的な認識の可能性がなくなってしまう。
だとすれば、総合判断にもとづく数学や自然科学といった学問の根拠は失われてしまうことになる。
そこでカントは、ア・プリオリな認識能力を想定することにより、普遍的な認識の可能性を確保しようとしたのだ。
それでは、ア・プリオリな認識能力とは何なのか?
その探究の内訳を『純粋理性批判』の第1部「超越論的感性論」と第2部「超越論的論理学」のなかに見ていこう。
空間と時間
『純粋理性批判』の第1部「超越論的感性論」において、人間の認識は、認識する対象によって意識が触発されるという受動的な契機から始まるとされる。
これは「直観」と呼ばれる。
つまり、「直観」とは、対象=外的な物体が感官(感覚器官)を通して意識に受容されることである。
直観には、上記のような直観=「外部感官」によってもたらされる「外的直観」の他に、「内部感官」によってもたらされる「内的直観」がある。
「内的直観」とは、記憶や思考のような意識自身に関する直観である。
次に、こうした直観は、内容と形式に分けられる。
内容というのは感官に与えられる刺激のことだが、その刺激がどのようなものとして受け取られるかは形式によって決められるのだという。
カントによれば、外部感官の形式は「空間」、内部感官の形式は「時間」である。
「空間」は、そのなかに外界のさまざまな事物が包摂されて存在するように認識することを可能にする形式である。
一方、「時間」は、無限に進む1つの流れのなかに、受け取られた刺激を「継起的」に(次々に)付け加えていくことを可能にする形式である。
そして、この「空間」と「時間」は、人間の意識の外にある形式では決してなく、意識の内にア・プリオリに備わっている固有の形式だとされるのである。
こうしたカントの考え方に従えば、人間が意識において受容できるのは、空間と時間というア・プリオリな認識形式を通して受容される対象(世界)のみに限られる。
逆に、空間と時間という形式を通らない対象は受容されないということになる。
このことをカントは、〝人間にとって「物自体」の認識は拒まれており、「現象」である自然の認識のみが許されている〟と表現した。
ちなみに、「物自体」とは、経験することはできないが、存在することを否定できない対象のことである。
純粋悟性概念
直観を通して受け取られた意識内容は、次に概念をつくりあげるための材料となる。
この概念化の段階について論じられているのが、『純粋理性批判』における「超越論的論理学」である。
「超越論的論理学」では、まず「超越論的分析論」が述べられる。
「超越論的分析論」は、空間と時間という直観形式を通して受け取られた意識内容を認識としてまとめあげる機能=「悟性」に関する議論である。
カントによれば、悟性は、直観が受動的な働きであったのに対して、意識の能動的な働きである。
そして、悟性には、〝○○は××である〟という主語と述語の言語形式=「判断」の能力がア・プリオリに備わっており、悟性はこの「判断」によって思惟するのだとされた。
その判断のパターンを表したのが、「判断表」と「カテゴリー表」である。
判断表とカテゴリ表に示された形式は、「純粋悟性概念」と呼ばれる。
【判断表】
(1)量
全称的:すべての○○は××である
特称的:いくつかの○○は××である
単称的:1つの○○は××である
(2)質
肯定的:○○は××である
否定的:○○は××ではない(例:リンゴは黒くない)
無限的:○○は××とは違う(例:リンゴはミカンとは違い、ブドウとも違い、イチゴとも違い、……)
(3)関係
定言的:○○は必ず××である
仮言的:○○は△△ならば××である
選言的:○○は□□か、または××である
(4)様相
蓋然的:○○は××かもしれない
実然的:○○は××である
必然的:○○は××であるにちがいない
上記の判断表から、さらに「カテゴリー表」が導かれる。
【カテゴリー表】
(1)量
単一性
数多性
全体性
(2)質
実在性
否定性
制限性
(3)関係
属性と実体
因果性と依存性
相互性
(4)様相
可能性―不可能性
存在性―非存在性
必然性―偶然性
判断表とカテゴリー表は、1対1の関係にあるのが特徴である。
たとえば、判断表の「関係」における「仮言的」は、カテゴリー表の「関係」における「因果性―依存性」に対応している。
つまり、〝石は太陽に照らされると暖かくなる〟という仮言的な判断が下された場合、それだけでは経験だけにもとづく判断の域を出ないが、この判断がさらにカテゴリーの段階に進むと、〝太陽が原因となって石を暖めるという結果をもたらす〟=〝太陽は石を暖める〟という因果関係をふまえた「ア・プリオリな総合判断」になるということである。
また、カントによれば、直観を通して受け取られたさまざまな意識内容を統一し、判断とカテゴリーによって総合判断が成立するプロセスそのものは、「超越論的統覚」(「純粋統覚」)によって支えられているという。
そして、「超越論的統覚」とは、〝対象を認識している自分自身がいる〟という「自我同一性」の意識と同義である。
なぜなら、もしも自我同一性の意識がなければ、次々と受け取られる知覚内容がバラバラなままで、統一的な判断を下すことができなくなってしまうからである。
このようにしてカントは、空間と時間というア・プリオリな直観の形式によって受け取られた意識内容が、判断表とカテゴリー表において表されるような、これまたア・プリオリな悟性の形式によって総合判断へといたるプロセスを示した。
また、こうした判断のプロセスにおいては、自我同一性の意識が必要であることを主張した。
このことによって、普遍的な認識が成立する根拠を示すとともに、因果性と同一性を否定したヒュームを批判したのである。
認識のあり方は生まれつきの認識の形式によって決まると唱えたカントの哲学は、対象を正確に認識するというスタンスをとり続けてきた従来の哲学とくらべると、画期的であった。
カント自身は、このことを「認識が対象に従うのではなく、対象のほうがわれわれの認識に従わなければならない」と述べ、天動説に対して地動説を唱えた天文学者にちなみ、みずからの考え方を「コペルニクス的転回」と呼んだ。
素質としての形而上学
これまで、〝人間の認識は直観と悟性の2つの段階を経る〟とカントが考えたことを紹介してきた。
しかし、カントによれば、人間には、この2つの段階をさらに越えていこうとする衝動があるのだという。
この衝動にまつわる問題は、カント自身によって「素質としての形而上学」と呼ばれ、『純粋理性批判』の「超越論的弁証論」において論じられている。
「素質としての形而上学」を担うのは、「理性」(正確には「理論理性」)である。
「理性」(「理論理性」)とは、〝経験された世界を越えて推理(推論)する能力〟である。
この理性は、次の3つの形而上学的問いにおいて働くのだという。
(1)合理的心理学:魂とは何か?
(2)合理的宇宙論:宇宙とはどのようなものなのか?
(3)合理的神学:神の存在を証明することはできるのか?
しかし、魂や宇宙や神は、どれも経験を越えた対象であるため、理性がこれらについて説明しようとすると、必ず根拠を欠いた独断=「誤謬推理」(ごびゅうすいり)に陥ってしまう。
その例が、すでに紹介したアンチノミー(二律背反)である。
アンチノミーは、(2)の合理的宇宙論において扱われている。
このように、カントは、直観と悟性を経たア・プリオリな総合判断においては普遍的な認識が成り立つが、理性がそれを超えて推理(推論)する段階になると普遍的な認識は成り立たなくなることを示し、理性の限界を厳格に定めた。
カントは、理性の正当な対象である経験可能な世界を「現象界」と呼び、一方、経験不可能ではあるが存在を否定できない「物自体」が属する世界を「英知界」(「叡智界」)と呼んだ。
しかし、それでは、人間は理性によって英知界に関わることができないのであれば、どのように関わればよいのかという疑問が生じる。
この疑問に答えたのが、『実践理性批判』である。
格率と実践的法則
カントは『純粋理性批判』において、〝われわれは何を知ることができるか?〟について問い(認識原理の批判)、理性(理論理性)の限界を明らかにした。
これに続く『実践理性批判』においては、〝われわれは何をなすことができるか?〟と問い(道徳原理の批判)、道徳の基礎を規定しようとした。
つまり、カントは、理論理性が現象界の法則を把握する役割を担うのに対して、実践理性は英知界の法則を捉える役割を担うと考えたのであり、理論理性の力が及ばない英知界との関わりを、実践理性を通じて求めたのである。
カントによれば、人間は「感性的存在者」であると同時に「理性的存在者」でもあるという。
「感性的存在者」とは、人間は食欲や性欲、その他さまざまな生理的欲求を持つ存在だという意味である。
一方、「理性的存在者」とは、人間は感性的な欲求にのみ従う存在ではなく、自己を律する理性にも従う存在だという意味である。
こうした二面性を備えた人間がさまざまなことを意志し、行為するとき、2つの原則が働くのだという。
1つは、「格率」(マクシーメ)である。
この「格率」は、まったく主観的な行為の原則なので、人に会ったときは挨拶する、高齢者には席を譲るといった善い原則から、金儲けのためには手段を選ばない、1人でも多くの女性と肉体関係を持つ、といった邪(よこしま)な原則まで含まれる。
もう1つは、「実践的法則」である。
この「実践的法則」は、格率とは異なり客観的な原則で、あらゆる物体に働く落体の法則のように、自分にだけ通用するのではなく、すべての理性的存在者に通用する原則=「道徳法則」である。
もしも人間が理性的存在者であるだけなら、何の障害もなく実践的法則に従うことができる。
しかし、人間は、理性的存在者であると同時に感性的存在者でもある。
そのため、カントによれば、人間は、みずからの〝自由な意志〟によって努力しなければ実践的法則に従うことができないのである。
定言命法と仮言命法
カントによれば、人間が実践的法則に従うには、みずからの〝自由な意思〟によって努力しなければならないため、実践的法則は〝義務〟や〝命令〟として認識される。
このことは、『実践理性批判』において次のように述べられている――
「君の意志の格率が、いつでも同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ。」
これは、〝自分の行為の原則が常に誰もが従わなければならない原則に合うように行為しなさい〟という意味である。
こうした命令は、カントによって「定言命法」(ていげんめいほう)と呼ばれた。
道徳は、状況や条件によって左右されてはならず、無条件の命令や義務でなければならない。
そのため、定言命法は、「~しなさい」「~すべし」という形式となる。
これに対して、「もし……ならば、~しなさい(すべし)」という条件つきの命令は、「仮言命法」(かげんめいほう)と呼ばれる。
たとえば、人を助けるときに、〝ここで助ければ自分は善い人間だと周囲から評価されるかもしれないから助ける〟というのは、裏を返せば〝周囲から評価されないならば助けない〟ということであるから、条件つきの命令=仮言命法である。
カントによれば、仮言命法にもとづく行為は、「利福」(自分の利益)を優先する行為であるため、真の道徳的行為とはなりえないという。
真の道徳的行為であるためには、自己の利福を度外視した、人助けそのものを目的とする定言命法でなければならないのである。
道徳的行為と自由意志
自己の利福を度外視した定言命法に従う行為が真の道徳的行為だと考えたカントに従えば、ある行為がどれだけ道徳的であるかということを結果や見かけから判断することはナンセンスになる。
つまり、カントの哲学においては、行為の動機、すなわち、無条件に道徳法則に従おうとする意志=「善意志」こそが重要なのである。
人間は、感性的存在者として、食欲や性欲、その他さまざまな生理的欲求を充たす行為を行う。
しかし、その行為は、たとえばお腹が空いたから食べ物を食べる、眠くなったから寝る……というように、たんに自然のメカニズムに従った行為にすぎず、そこに自由はない。
人間には、もう1つ、生理的欲求を充たすだけにとどまらない理性的存在者としての性質が備わっている。
それが「自由意志」である。
お腹が空いているけれども、飢えた子どもを助けるために自分は食べない。
眠いけれども、敵から仲間を守るために自分は寝ない。
たしかに自分は、食べることを選択できたし、眠ることを選択することもできた。
しかし、そのような傾向性に従う行為ではなく、あえて道徳的行為を選択した。
そうした行為をなすことができるのも、自由意志があるからだ。
自然のメカニズムに従う存在に堕落(だらく)することなく、自由意志によって定言命法に従う行為を選び取る――
これが、カントの実践哲学=倫理学の基本なのである。
美の考察と趣味判断
カントは、『判断力批判』において、心の働きのうちの感情を取り上げることを通して、人間が美についてどのように判断するかを考察した。
カントによれば、私たちがある対象について〝美しい〟とか〝醜い〟(みにくい)と判断するとき、それは、快不快の感情に従っているという。
当人が主観的に快さ(こころよさ)を感じる対象については〝美しい〟と判断し、不快に感じる対象については〝醜い〟と判断するというのだ。
こうした判断を、カントは「趣味判断」と呼んだ。
趣味判断は、「美的判断力」(「直観的判断力」)によってもたらされる。
「美的(直観的)判断力」は、認識における真偽の判断能力や実践における善悪の判断能力とは異なる能力であるものの、人間にとって、それら2つの能力と同じくらい重要な能力である。
そして、悟性と実践理性の「中間項」として機能するという。
つまり、感情は、知と意志の中間にあるものなのである。
ちなみに、カントにおける「判断力」には、悟性と理論理性との「中間項」として機能するものもある。
この場合の「判断力」は、自然や世界に関する認識内容を概念化するプロセスにおいて機能する。
さて、カントによれば、趣味判断は、「質」「量」「関係」「様相」という4つの観点(契機)から考察することができるという。
「質」における考察
趣味判断の元となる快は、感覚を満足させる快や道徳的善からもたらされる快のような、対象の存在を前提する「関心と結びついた満足」とは違い、「無関心な満足」である。
つまり、ある対象が美しいかどうかを判断するときに必要なのは、その対象の表象が自分のなかで満足を生み出しているかどうかであり、その対象がどう存在するかでは決してない。
「量」における考察
〝この薔薇(ばら)は美しい〟と判断するとき、その趣味判断は、当人による、そのとき、その場所における個別的で主観的な判断にしかすぎない。
しかし同時に、他人も〝この薔薇は美しい〟と思うはずだという普遍妥当性をも要求する。
これは、趣味判断が、「構想力」(直観によって受け取った多様な内容を結合し、統一させる能力)と悟性という認識能力の「自由な戯れ」に関わっているからである。
「関係」における考察
趣味判断は、対象に「合目的性」を見出すときに成立する。
たとえば、とても住み心地がよいように建てられた住宅や、極限までスピードが出るレーシングカーは、それぞれの目的を充分に実現する形態をしているため、美しいと感じるのである。
ただし、カントによれば、目的にどれくらいかなっているかは美的判断の基準になるものの、目的そのものは問われないという。
「様相」における考察
趣味判断は、認識判断とは異なり、「概念」=カテゴリーを媒介させなくとも成り立つ。
しかし、その一方で、あらゆる主観に共有される美に関する感覚=「共通感官」によって、あらゆる人からの「普遍的同意」を要請する。
〝美しい〟と感じるのは個々人の趣味にもとづくが、それにもかかわらず、美はたんなる主観の域を超えて人々に共有される社会的な現象である。
その根拠となっているのが、共通感官だという。
ただし、共通感官は、カテゴリーのように明確化できるものではない。
カントは、こうした美の考察によって何をなそうとしたのであろうか?
美は主観的でありながら普遍性を要求し、概念(カテゴリー)を媒介しなくても成り立つが、合目的性を含むという。
まるで奥歯に物がはさまったかのような言い方であるが、これは、美というものが道徳をめざしている(目的としている)とカントが考えていたからだと推測できる。
美は、道徳のように道徳法則という確固とした基準を持っていない。
それゆえ、美しいものの判断は自由である。
しかし、同時に、美は普遍妥当性を要求する。
このとき、美の判断は、自由意志によって自発的に普遍性(悟性)と一致しようとしているのである。
これは、道徳が、やはり自由意志によって道徳法則と一致しようとするあり方と同じである。
つまり、カントの哲学においては、人間は美という主観的な判断を通じて、道徳という普遍性とつながっているのである。
このようにカントは、美を道徳に還元できるものと考えたのであった。
フィヒテ
カントは、人間には「理性的存在者」としての側面と「感性的存在者」としての側面があると考えた。
この考え方に従うと、人間の自我というものは、理論的に認識する自我と、欲求に突き動かされ行為する自我の2つに分裂してしまうことになる。
フィヒテ(Fichte、1762-1814)は、こうしたカントの考え方に対し、両者をどちらも人間の重要な本質だと捉え、自我について統一的な哲学を打ち立てようとした。
代表作『全知識学の基礎』において、フィヒテは、自我に関して3つの原則を立てる。
- 第一原則:自我は根源的に端的に自己自身の存在を定立する(生み出す)
- 第二原則:自我に対して端的に「非我」が定立される
- 第三原則:自我は自我の内において可分的自我に対して可分的非我を定立する
まず、第一原則についてであるが、フィヒテは、自我が存在するのは自我が自分を定立する(生み出す)からであり、自我が自分を定立するのは自我が存在するからだと考えた。
つまり、自己定立の働きと自我の存在とは同一である、あるいは、自我は活動するものであると同時に、その活動の所産だというのである。
この例は、たとえば、人がある役割を与えられたとき、それまでその役割にまったく関心がなかったとしても、その役割を遂行することによって、その役割を自覚的に果たそうとする意識が生じてくることに見て取れる。
このとき、〝役割の遂行=自己定立の働き=活動〟と〝役割の自覚=自我=活動の所産〟とはワンセットになっている。
このような、活動とその所産が同一となるような営みを、フィヒテは「事行」と呼んだ。
一方、役割を遂行するプロセスにおいて立ち現れる、他人の同意や協力が得られないなどの障害は、自我ではないもの=「非我」として認識される。
ただし、この第二原則の段階では、非我はただ自分の役割の遂行を妨害するものとしか感じられないままである。
しかし、次の第三段階にいたると、自我は、この事態を進展させようと、自己を障害(非我)によって制限されたもの=「理論我」だと捉えるようになる。
その一方で、自我=「実践我」は、克服できそうな障害(非我)から克服していき、ふたたび非我に制限されない自我=「絶対我」へ戻ろうと努力する。
このようにしてフィヒテは、自我の構造を、活動の源となる「絶対我」が非我を定立することによって自己を有限な「理論我」として自覚し、「実践我」としての自我が、その非我を乗り越えてふたたび「絶対我」へ戻ろうとする体系だと考えることによって、カントによって理論理性と実践理性に分裂させられた自我を統合しようとしたのであった。
シェリング
フィヒテの哲学を継承し、さらに徹底させたのが、シェリング(Schelling、1775-1854)である。
シェリングは、フィヒテが『全知識学の基礎』を出版した翌年の1795年、『哲学の原理としての自我について』を著したが、それを読んだフィヒテに「私の著書の注釈であり、私の考えを適切に理解している」と言わしめるほど、フィヒテの哲学をわがものとしていた。
そんなシェリングであったが、やがてフィヒテの哲学から離れていくことになる。
それは、まさにフィヒテの哲学の核心である絶対我の概念に満足できないからであった。
フィヒテの哲学において自我とは、現実の人間が障害=非我を乗り越え、絶対我へいたろうとするものであった。
そこでは、自我は非我と対立し、絶対我は非我と対立する自我(人間精神)のなかにとどまるものであった。
しかし、〝絶対〟と呼ぶ以上、非我に障害されるのはおかしく、〝絶対〟であるならば障害を乗り越えて無限に広がっていくべき存在でなければならない。
とすれば、それはもはや自我と呼ぶべきものではなく、絶対者と呼ぶべきものであるはずだ。
絶対者であるならば、それは人間精神の根拠であるだけでなく、その枠を越えて非我の根拠でもなければならない。
このように考えたシェリングは、フィヒテの自我と非我の根底に絶対者を置き、精神と自然は同じ1つの絶対者から展開したと論じた。
こうしたシェリングの考え方を「同一哲学」と呼ぶ。
しかし、すべてが絶対者から展開したのだとなると、それではなぜ、精神と自然という別々のものが生じるのかという疑問が湧く。
これについてシェリングは、絶対者は質に相違がないのだから、精神と自然の相違は質的な違いではなく、量的な違いであると述べている。
つまり、精神のなかには自然の要素があり、自然のなかには精神の要素があるのだが、精神においては精神の要素のほうが多く、自然においては自然の要素のほうが多いということである。
こうして、シェリングの哲学における自然とは、精神の要素を含む存在であるため、デカルトが考えたような無機質な存在ではなく、有機的な存在となった。
しかも、ただたんに有機的であるだけではなく、精神性が低い(精神の要素が少ない)段階から高い段階へと上昇する運動を伴う系列なのであった。
シェリングは、自然のなかに見られる力の現れを「ポテンツ」と呼んだ。
そして、最初のポテンツは物質であるとしたが、物質のなかにはさらに展開しようとする力が宿っており、それが磁気や電気、化学反応などの現象となり、さらには有機体や生物体へ上昇していくと考えた。
さらに、シェリングは、この系列を精神にも適用した。
彼は精神を、必然性を追究する理論哲学、自由を実現する実践哲学、自分以上のもの(絶対者)を表現しようとする芸術哲学に区別し、絶対者そのものを直観し、作品のなかに定着させようとする優れた芸術家=「天才」の精神(の働き)を最高位に位置づけたのであった。
ヘーゲル
生涯と著作
18世紀半ばのカントの哲学に始まり、フィヒテ、シェリングへと続くドイツ哲学の流れを「ドイツ観念論」と呼ぶ。
このドイツ観念論のトリを務めるのが、ヘーゲル(Hegel、1770-1831)である。
ヘーゲルが生まれたのは、ドイツ南部に位置していたヴュルテンベルク公国である。
当時のドイツは小さな領邦国家に分裂していたが、ヘーゲルの生まれた国はそのうちの一国で、絶対君主制であった。
そうした状況にあったドイツの隣国フランスからは、自由と平等を謳う思想が伝えられ、また、君主やキリスト教会からの命令に従うよりも自分自身の良心に従う生き方を説いたカント倫理学の影響もあり、ドイツには社会変革の機運が高まりつつあった。
そうしたなか、1789年にフランス革命が起きる。
この年、ルター派神学の拠点となっていたテュービンゲン大学で学んでいたヘーゲルは、学友であったシェリングやヘルダーリンとともに喜び合ったという。
しかし、革命後のフランスでロベスピエールが恐怖政治を行ない、その後、皇帝となったナポレオンがドイツに侵攻してくると、今度は反フランスの機運が高まり、ドイツに近代的な統一国家を建設しようという動きが活発になってきた。
ヘーゲルもドイツの統一を願った人びとのうちの1人で、こうした時代背景のなかで、彼は数々の著作を著していった。
ヘーゲルの著作は、以下のとおりである――
『精神現象学』
『大論理学』
『エンチュクロペディー』
『法の哲学』
また、ヘーゲル自身の著作ではないが、弟子がまとめた講演録もある――
シェリング批判と絶対者の発展としての歴史
シェリングの哲学では、精神と自然はどちらも絶対者から展開したものであるとされた。
そして、絶対者には質の差がないため、そこから展開した精神と自然にも質の違いはなく、両者を分けるのはただ量の違いであった。
つまり、シェリングによれば、人間の精神は、路面に転がっている石ころと同じ性質のものなのである。
しかし、それでは、両者の量の違いは、いったいどのようにして生じるのかという疑問が残る。
こうした疑問に対して、ヘーゲルは、そもそもシェリングの言う絶対者は絶対者たりえていないと批判する。
シェリングは、絶対者と有限者(精神と自然)が質的に違わず、量的な違いがあるだけだと言っている。
しかし、実際には、無限なる絶対者が有限者から超越していると考えている。
そうすると、絶対者は、有限者とは別の対立した存在だということになる。
つまり、絶対者は、有限者という対立者を持っていることになり、無限者ではなくなるとともに、絶対者にはならなくなってしまうとヘーゲルは批判したのである。
もともとシェリングは、有限者に対するものとして無限者という名を与えたにすぎないのであるが、ヘーゲルに言わせると、それは〝自己に対して他者を自己の外部に持つ〟「悪無限」である。
それでは、ヘーゲルは、絶対者というものをどのような存在だと考えたのであろうか?
ヘーゲルが考える絶対者とは、〝すべてを自己のうちに含み込み、他者のもとにあって自己であるような無限〟である。
こうした無限をヘーゲルは「真無限」と呼び、絶対者として規定した。
こうしたヘーゲルの絶対者観によれば、有限者は無限者のなかに含み込まれることになる。
変化する有限者を内に含みながら、みずからは変化しないで自己同一性を保つのが絶対者だということだ。
では、内に含まれる有限者は変化しつつも、絶対者自身は変化しないとは、いったいどのようなあり方なのであろうか?
ヘーゲルによれば、絶対者は、みずから有限者として変化しつつも、その変化の過程を通して自分自身を現すという。
「(有限者の)変化の過程」というのは、「歴史」のことだ。
また、物質は固定的で変化しないとヘーゲルは考えたので、変化するのは精神=理性だとされた。
よって、精神=理性としての絶対者は歴史のなかで自分自身を現していくと言えるが、そうだとすると、歴史には〝目的〟があり、有限者の変化には〝摂理〟があると考えることができる。
こうした〝有限者としての絶対者が摂理に沿って目的へ向けて自己を実現していく〟あり方を考察するなかでヘーゲルが見出したプロセスが「弁証法」である。
弁証法
ヘーゲルは、絶対者の自己実現としての認識活動と存在のあり方のそれぞれの展開を、弁証法と呼ばれるプロセスとして描いた。
認識の弁証法
人は何かを認識するとき、まず、ある1つの立場を肯定する。
しかし、その立場は、決して絶対ではない。
なぜなら、すべてを説明しつくせる立場などないからである。
そのため、その立場の矛盾を突く立場が必ず現れる(もしくは、みずから気づく)。
すると、議論が起きる。
その結果、両者の立場を考慮しつつも両者の対立を超えた第3の立場に議論は落ち着く。
たとえば、(1)「バナナは青い」と主張する人がいたとする。
すると、(2)「いや、バナナは黄色い」と反論する人が現れる。
そして、議論の末、(3)「バナナは、最初は青いが、熟すと黄色くなる」という見解に落ち着く。
このとき、(1)の段階を「テーゼ」(「正」「定立」「即自的」)、(2)の段階を「アンチテーゼ」(「反」「反定立」「対自的」)、(3)の段階を「ジンテーゼ」(「合」「綜合定立」「即自対自的」)と言う。
また、(1)と(2)の核心は「保存」しながら、両者の立場を離れて新しい立場へ〝高まる〟ことを「アウフヘーベン」(「止揚」「揚棄」)と言う。
こうして、アウフヘーベンされた立場は、ふたたび1つの立場になる。
すると、その立場の矛盾を突く立場が現れ、両者をアウフヘーベンする立場へと高まっていく……。
こうした弁証法のプロセスは何度も繰り返され、ついには、絶対者の「絶対精神」を捉える「絶対知」へいたるとヘーゲルは考えたのである。
存在の弁証法
ヘーゲルは、存在のあり方の展開も、弁証法のプロセスとして描いている。
たとえば、ここに1つの植物の種子があったとする(正)。
その種子はやがて殻が破れ、中から芽が出てくる。
これは、芽が種子を否定したと捉えることができる(反)。
芽は成長していき、ついには茎や葉、花になる。
これは、芽が自己を否定することによって茎、葉、花になると捉えることができる(合)。
茎や葉、花は、やがて枯れ果て、ふたたび種子となる。
これは、茎や葉、花が自己を否定し、種子になったと捉えることができる。
重要なのは、植物におけるこうしたプロセスのうちのある段階だけを取り出して〝これが植物だ〟とは言えないということだ。
〝植物〟とは、これらのプロセス全体を指している。
つまり、存在も、認識と同じように、弁証法というプロセスを通して全体(絶対者)を現し出す――
そうヘーゲルは考えたのである。
論理学、自然哲学、精神哲学
『精神現象学』を著したヘーゲルは、その成果を土台として、絶対精神の展開を捉える哲学体系の構築に取りかかり、『エンチュクロペディー』として刊行した。
『エンチュクロペディー』は、「論理学」「自然哲学」「精神哲学」の3部から構成される。
ちなみに、「論理学」は、1812年から1816年にかけて刊行された『論理学』(大論理学)と区別するために「小論理学」と呼ばれる。
論理学
ヘーゲルが言う「論理学」は、考え方の規則としての(形式)論理学ではなく、また、認識の成立要件としての(超越論的)論理学でもない。
そうではなく、絶対精神が自己の思惟を展開していくプロセスを描いた論理学である。
ヘーゲルによれば、思惟は、それ自身が規則を生み、自己展開していくという。
たとえば、リンゴは青いという主張(「存在」)に対して、リンゴは青くないという主張(「無」)が唱えられ、リンゴは最初青いが、そのあと赤くなるという主張によって対立は〝解決〟される。
つまり、質、量、限度、存在、本質といったカテゴリーは、思惟のプロセスのなかでおのずと生じてくる。
次に、思惟は、存在の根底にある本質へと及んでいく。
存在と本質は対立するものとして捉えられるが、やがて両者は「止揚」(統一)され、「概念」となる。
その後、「概念」は弁証法的に展開し、「理念」となる。
自然哲学
ヘーゲルによれば、自然は理念の「他在」(外部化)である。
自然は、理念を実現するものではないが、理念が精神の領域へと弁証法的に展開していくために必須の領域である。
この自然の領域において、理念は、空間を対象とする力学、法則を見出す物理学、生命を対象とする有機体論へと弁証法的に展開していく。
理念は有機体論において扱われることにより、「他在」である自然から、ふたたび精神の領域へと戻っていく。
精神哲学
精神の領域へと展開した理念は、個人としての精神(「主観的精神」)が、世界のなかに現実化され、歴史のなかで自己を実現する精神(「客観的精神」)との対立をきっかけとして、絶対精神と一致する。
絶対精神との一致において精神は、自己を直観し、表象し、概念として把握する。
この最終的な概念把握こそが、「哲学」である。
そして、この「哲学」において、すべてのものが(哲学の歴史すらも)体系化され、全体のなかに位置づけられるのであり、それによって初めて真の自由が実現するのだとヘーゲルは考えたのであった。
『精神現象学』
西洋哲学史において最大の著作の1つと言われるのが、ヘーゲルの主著『精神現象学』である。
この著作のなかでヘーゲルは、人間の精神を、さまざまな問題にぶつかり、自分自身を否定し、そしてその否定を乗り越えていく弁証法のプロセスとして描いている。
ヘーゲルによれば、人間の精神=意識は、素朴な感覚の段階から「絶対知」の段階へいたるという。
意識
ヘーゲルによれば、人間の精神のもっとも素朴な段階は、「感覚的確信」である。
これは、目の前にある対象のみが〝ほんとう〟であり、それゆえ、対象がそのまま〝ある〟のであって、自己は対象を一方的にながめていると素朴に信じ込んでいる段階である。
しかし、意識はやがて、主観(認識)と客観(対象)はただながめる側とながめられる側に分かれているのではなく、両者を関係づけているのは自己において他ならないことを知る。
自己意識
自己が認識している対象との関係が成り立つためには、対象が不可欠であることに気づく。
つまり、自己のみならず、対象のほうも同じ関係を認めるという「相互承認」がなければ、自己意識は成り立たない。
そのよい例が、主人と奴隷だ。
奴隷は闘いに敗れて主人に従順であるが、実は主人のほうは、そうした奴隷の従順な労働なしには生きていけない。
このように、自己と対象とが意識において1つであると気づくとき、自己意識は理性へと発展していく。
理性
理性は、自己の価値を関係性のなかに見出していく。
理性には、自然を観察し、そのなかに自己を見出そうとする「観察する理性」があるが、もう1つ、他者から承認してもらおうとする「行為する理性」がある。
この「行為する理性」は、まず、相手との「快楽」(けらく)=恋愛において自己の価値を見出そうとするが、閉鎖的で個人的であるためにうまくいかない。
次に、〝自分の幸せがみんなの幸せ〟になることをめざすが、自分が思う〝みんなの幸せ〟と他者が思う幸せが一致しないことを知る。
そこで、「行為する理性」は、自分が思う〝みんなの幸せ〟をなんとか実現しようと「徳の騎士」となる(意気込む)が、世間を無視した独善性のため、やはりうまくいかない。
その結果、「行為する理性」は、一定の普遍性(「事そのもの」)を持つ行為のみが、他者からの承認を得ることを知るにいたる。
精神
意識→自己意識→理性という人間個人の精神の成長を描いたヘーゲルは、次に、このプロセスを歴史へ適用し、人類の精神の成長を描き出す。
これは、〝精神は具体的な社会制度となって現実化する〟とヘーゲルが考えていたことによる。
ヘーゲルによれば、古代ギリシアのポリスにおいては個人の精神と社会(共同体)の精神は調和していたが、家族のルールと社会のルールの不一致によって個人の精神と社会の精神は対立するようになる。
この対立によって、精神は「自分から疎遠になった精神」(自己を客観視する精神)となるが、個人の精神はふたたび社会の精神と一体化することをめざす。
そして、「高貴な意識」vs「下賎な意識」→「信仰」vs「啓蒙」→「絶対自由」vs「道徳性」という弁証法のプロセスを経て、ついには「事そのもの」を自覚した「良心」=「絶対知」の境地にいたる。
これが、古代ローマから絶対君主制を経てフランス革命へといたる歴史なのだとヘーゲルは唱えた。
絶対知
ヘーゲルが言う「絶対知」とは、意識→自己意識→理性という人間精神の展開のプロセスを充分に知り尽くした精神のことであり、真の〝ほんとう〟〝善い〟〝正しい〟は他者に承認されてはじめて成り立つことを自覚した精神のことである。
また、宗教が言う「神」を概念として完全に把握した精神のことでもある。
こうしたすべてを見通すことができる「絶対知」の境地に、人間の精神は到達することができるとヘーゲルは考えたのである。
このように、ヘーゲルの考えによれば、歴史とは、精神=理性である「絶対者」が自身の本質を明らかにさせていく過程である。
また、「絶対者」の本質は「自由」にあると考えられたため、ヘーゲルにとっての歴史とは、〝理性が自由を実現していく過程〟なのであった。
ショーペンハウアー
ドイツ観念論を批判的に継承したのが、ヘーゲルと同時代を生きたショーペンハウアー(Schopenhauer、1788-1860)である。
その哲学は、主著『意志と表象としての世界』のなかに、ほぼ描き尽くされている。
ショーペンハウアーによれば、世界は人間の主観の「表象」(現象)であるという。
時間や空間、因果性によって合理的に認識できるとカントが考えた世界は、主観によって捉えられた側面の1つにしかすぎない。
よって、世界には、他にも別の側面があることになる。
そして、その側面とは、経験の根拠ではあるが人間の認識によっては捉えられないとカントが言った「物自体」である。
ショーペンハウアーが考える「物自体」とは、カントとは異なり、「意志」であった。
しかし、「意志」といっても、個人や自我に備わる理性的な意志や神の意志などでは決してない。
主体を持たない無意識的な「生への盲目的な意志」である。
この盲目的な意志は、あらゆる生命現象と物理現象の背後で働いているが、人間においては身体として客体化されている。
しかし、この意志は、盲目的であるがために、何の根拠も目的もないし、無際限である。
そのため、人間の欲求は決して満たされることがなく、その生は苦悩に満ちるしかないという。
では、人間は、どうすれば苦悩から「解脱」できる(解放される)のであろうか?
ショーペンハウアーは、まず、芸術、とりわけその最高形態である音楽について考察するが、苦悩からの解脱を完全にもたらすものではないと結論づける。
なぜなら、音楽(芸術)は、プラトンが言うイデアを直観できるものの、苦悩からの解脱は一時的で、恒久的な解脱とはなりえないからである。
次に考察されるのが「同情」(「共苦」)である。
ショーペンハウアーが言う「同情」とは、他者のなかに自分自身と同じ苦悩を見出して共有し、他者を理解しようとすることである。
それによって、他者への純粋な愛が生まれる。
しかし、苦悩からの解脱という点では、まだ不充分である。
そこで最終的に考察されるのが「禁欲」である。
「禁欲」とは、生への意志そのものを否定することである。
意志が欲望として盲目的に作用するということを哲学的に把握すれば、意志と、その表象である世界は消え去り、この世界への執着もなくなり、苦悩から完全に解脱することができる。
こうした「禁欲」は、仏教における「諦念」(物事の正しい道)と同じ意味である。
こうしたショーペンハウアーの哲学は、「ペシミズム」(厭世主義)と呼ばれ、ニーチェへ大きな影響を与えるとともに、「実存主義」や「生の哲学」の先駆となった。