生命倫理学

目次

医療の発達と倫理

医療の発達がもたらした期待と希望

現代は、医療が高度に発達した時代である。

その医療の発達により、それまで不可能だと思われていた治療や施術が徐々に実現できるようになってきた。

子どもが欲しくても恵まれないカップルは、「生殖補助医療」、とりわけ「体外受精」によって、子どもを持てる確率がかなり高まった。

生まれつき臓器に重篤な疾患を持つ人は、「脳死」になった人から臓器を提供してもらう「臓器移植」によって、生き延びることを諦めずにすむようになった。

あるいは、「ES細胞」や「iPS細胞」を使った「再生医療」によって、移植用臓器を得られる希望を持てるようになった。

難病に冒された人は、「遺伝子治療」によって治癒の可能性が出てきた。

医療の発達がもたらした問題

しかし、医療の発達は、期待や希望ばかりを生み出したわけではない。

これまで人類が経験したことのないような問題を突きつけてもいる。

たとえば、「生殖補助医療」(体外受精)においては〝余剰胚をどう扱うか?〟といった問題、「脳死」においては〝脳死は人の死か?〟といった問題、「再生医療」においては〝ES細胞をつくるために人間の胚を壊すことは殺人に等しいのではないか?〟といった問題である。

また、医療の発達は延命治療を可能にしたが、過剰な延命治療は「安楽死・尊厳死」や「QOL」(生命の質、生活の質)の問題を投げかけた。

医療の発達がもたらした変化

一方、医療の発達は、それまでの医療における人間関係や医療そのもののあり方を変えた。

上下関係にあった医師と患者との関係が対等になるにつれ、「患者の自己決定権」が唱えられるようになった。

また、医師が中心となって患者を治療=「キュア」するというあり方は、医療関係者でチームを組んで患者を総合的に「ケア」するというあり方へ変わってきた。

そして、こうした医療の発達に伴う問題を対象とするのが「生命倫理学」(bioethics)なのである。

生殖補助医療

生殖補助医療とは?

生殖補助医療」(生殖補助技術、assisted reproductive technology)とは、望んでも自然な妊娠をしない場合に用いられる不妊治療法である。

主だった治療法と、それにまつわる倫理的な問題を概観してみよう。

人工授精

人工授精」とは、子宮腔内に精子を注入する治療法である。

夫の精子を使う「AIH」(Artificial Insemination of Husband:配偶者間人工授精)と、ドナー(提供者)の精子を使う「AID」(Artificial Insemination of Donor:非配偶者間人工授精)がある。

「AID」は、夫が無精子症だったり、遺伝病を持っていたりする場合に行なわれるが、精子を提供するドナーを学歴や容姿でランクづけし、依頼者がそのランクに応じて精子を選ぶことを可能にする請負会社がアメリカには存在する。

〝劣等ないのち〟よりも〝優秀ないのち〟を選ぶ「優生思想」(ナチスの人種政策が有名)の温床となる恐れは否定できないだろう。

また、生まれた子どもが大人になり、自分の〝本当の親〟を求めた場合、「子の知る権利」と「ドナーの匿名性」が対立する可能性がある。

体外受精

体外受精」とは、卵子と精子を体外で受精させ、子宮へ戻す不妊治療法である。

夫の精子が活発でなかったり、少なかったりする場合は、医療者が顕微鏡で見ながら卵子のなかに精子を直接注入する「顕微授精」が行なわれる。

夫の精子で受精卵ができない場合は、ドナーの精子を用いる選択肢が出てくる。

その場合、「AID」(非配偶者間人工授精)と同じような問題が起きる可能性がある。

さらに、体外受精に伴う問題としては、成功率を高めるために複数の受精卵を移植したものの、それがかえって多胎を招き、胎児の数を減らす「減数手術」(減胎手術)を行なわなければならないということがある。

また、体外受精の成功によって使われなくなった受精卵=「余剰胚」をどう取り扱うかということも、倫理的な問題である。

代理出産・代理母

まず、「代理出産」とは、子どもを望む女性が、子宮や内臓になんらかの疾患や問題があって妊娠できない場合、夫と自分の受精卵を第三者の女性の子宮に移植し、出産してもらう方法である。

代理懐胎」とも呼ぶ。

また、代理出産する女性のことを「ホストマザー」と呼ぶ。

一方、「代理母」とは、卵巣や子宮の摘出などによって卵子をつくることができず、妊娠もできない女性が、夫の精子を第三者の女性に人工授精し、出産してもらう方法である。

代理母となる女性ことを「サロゲートマザー」と呼ぶ。

この代理母では、卵子を提供する女性とホストマザーが別々の女性となることもある。

ところで、代理出産と代理母では、ホストマザーやサロゲートマザーは自分の腹を痛めて出産することから、子どもに愛着が湧いてしまうということがある。

実際に、1986年の米国で、代理母を引き受けた女性が、依頼主夫婦に対し、〝子どもを引き取りたい〟と申し出て、裁判となった事件があった。

ベビーM事件」である。

判決の結果、その女性には親権は認められなかったものの、面会権は認められた。

もしも卵子提供者の女性とホストマザーが別々の女性で、その2人が親権を主張していたとしたら、問題はさらに深刻になっていただろう。

逆に、生まれた子が未熟児や障害児の場合、依頼主が引き取りを拒むことも考えられる。

また、代理母の場合、やはり「AID」と同じ問題が起きる可能性がある。

このように、代理出産・代理母は、倫理的なリスクを多く伴う方法だと言える。

人工妊娠中絶

人工妊娠中絶とは?

人工妊娠中絶」(artificial abortion)とは、胎児の成長をある時点で故意に終わらせることである。

多くの国で限定的に容認=合法化されているが、倫理的に大きな問題がある。

パーソン論

人工妊娠中絶でもっとも大きな問題は、〝胎児は人か否か?〟の線引きである。

この手の問題においては、もっぱら〝人はどの段階で生物学的ヒトになるか?〟が問題とされてきた。

これに対して、アメリカの哲学者であるマイケル・トゥーリー(Michael Tooley、1941-)は、1972年に公表した「人工妊娠中絶と嬰児殺し」(『バイオエシックスの基礎』のなかに抄訳「嬰児は人格を持つか」として所収)において、〝人格的ヒト〟という概念を導入し、〝生物学的ヒト〟であるだけでなく、〝人格=パーソン〟が備わっていなければ生きる権利はないとする「パーソン論」を唱えた。

このトゥーリーの考え方によれば、胎児や新生児には生きる権利がないため、人工妊娠中絶は道徳的に許されることになる。

その後、トゥーリーのパーソン論=「厳密な意味での人格」の概念に対して、H・トリストラム・エンゲルハート(H.Tristram Engelhardt,Jr、1941-)は、1982年に公表した「医学における人格の概念」において、「社会的意味での人格」という概念を唱え、最小限であっても社会的な相互作用(両親や他の人びととの人間関係)が可能な胎児や新生児を擁護しようとした(「修正パーソン論」)。

プロチョイスとプロライフ

米国では、人工妊娠中絶の是非について、産むか産まないかは女性の選択(チョイス)あるいは権利(ライト)によるとして、その合法化に賛成する「プロチョイス」(プロライト)と、胎児の生命(ライフ)や「胎児の生存権」を尊重し、合法化には反対の「プロライフ」に立場が分かれ、両者は激しく対立している。

〝人はいつからヒトになるか?〟という問題について、プロチョイスは、胎児の成長の途中からと考える。

一方、プロライフは、受精した時点からと考える。

そのため、プロライフは、ヒト胚(受精卵)を壊してつくるES細胞にも反対している

また、性教育の不足や家族計画の欠如、貧困やレイプなどを要因とする〝望まない妊娠〟による中絶については、プロライフは、それがどのような理由によるものであれ、中絶を容認しない傾向がある。

これに対し、プロチョイスは、ただ中絶を容認するだけにとどまらず、〝望まない妊娠〟そのものを減らすことにより、人工妊娠中絶を減らそうとしている。

母体保護法

日本には、不妊手術と人工妊娠中絶に関する条件を定めた法律=「母体保護法」がある。

母体保護法で人工妊娠中絶が認められる条件としては、健康上の理由、暴行やレイプなどによる妊娠に加え、「経済的理由」が挙げられている。

これは、〝経済的な事情により母体の健康が著しく害されるようであれば中絶してもよい〟という条件である。

この条件により、日本での中絶は実質的に自由化されており、その数は厚生労働省の統計によると、2020年には145340件であった。

脳死

脳死とは?

脳死」(brain death)とは、脳が回復できないほどの損傷を受け、脳幹の機能が停止した状態のことである。

交通事故や脳内出血などのアクシデントによることが多い。

脳死の判定基準

〝人の死〟は、ふつう、〝瞳孔散大〟〝呼吸停止〟〝心臓停止〟という3つの徴候によって判定される(「三徴候死」)。

しかし、救急医療の現場で人工呼吸器が使われるようになると、脳の機能は停止しても(瞳孔散大は確認できても)、心臓や肺は動きつづけるという患者が現れた。

こうした状態は当初、「超昏睡」「不可逆的昏睡」と呼ばれ、生きているとみなされた。

しかし、患者はほどなく死にいたることから、「脳死」という基準をつくり、〝死んでいるものとみなす〟ことによって、移植用臓器を摘出することができるようにしたのである。

脳死かどうかを判定する基準は、国によって異なるが、日本の場合は以下のとおりである(1985年の厚生省基準=「竹内基準」)。

  • 深昏睡:顔に刺激(痛み)を与え、反応がないかどうかテストする
  • 自発呼吸の消失:人工呼吸器を一時的に外し、自発呼吸がないかどうかテストする(無呼吸テスト)
  • 瞳孔固定:瞳孔の大きさが左右ともに4ミリ以上になっているかどうか確かめる
  • 脳幹反射の消失:対光反射、角膜反射、毛様脊髄反射、眼球頭反射、前庭反射、咽頭反射、咳反射がないかどうかテストする
  • 平坦脳波:脳波が平坦かどうか確かめる
  • 時間的経過:上記5つの条件が満たされてから6時間経っても変化がなければ、その時点をもって〝死〟と認めてよい

脳死は人の死か?

脳死者から心臓や肺、肝臓などの臓器を摘出して、臓器不全の患者へ移植する「脳死移植」(脳死・臓器移植)は、先進国を中心に行なわれている。

日本でも、1997年10月に、いわゆる「臓器移植法」(臓器の移植に関する法律)が施行され、脳死移植が行なえるようになった。

しかし、法律施行前はもちろんのこと、法律施行後も、現在にいたるまで、〝脳死は人の死か?〟という問いかけは続いている

〝脳死は人の死だ〟と主張する人びとの多くは、〝人間の本質は精神にあり、その精神の座は脳にあるのだから、脳の機能停止は人格の消失=人間でなくなったことを意味する〟と考えている。

一方、〝脳死は人の死ではない〟と主張する人びとは、脳死状態であっても出産した女性患者や、脳の働きが失われているにもかかわらず体温の調節や消化吸収などの身体機能が改善した患者の例を挙げ、脳だけが人格の統一性を維持しているのではないとして、脳死肯定派の考えを批判している。

また、脳死は、臓器移植を前提にして〝つくられた死〟であると断じる。

脳死は過渡的な医療

再生医療の発達によって、将来、移植用の臓器を作製できるようになれば、脳死者からの臓器の摘出は必要なくなる。

つまり、脳死移植は過渡的な医療なのである。

とすれば、そうした過渡的な脳死移植のために、人びとに深く受容されている三徴候死をわざわざ変更してまで、脳死を人の死とする必要はないのではないか?

そうした批判も根強い。

安楽死・尊厳死・死ぬ権利

安楽死

安楽死」(euthanasia)とは、不治の病いに冒された患者が、自分の意思によって終末期の耐えがたい身体的な痛みを避け、安らかな死を迎えることである。

安楽死は一般に、(1)生かすがための無意味な治療を中止する「消極的安楽死」、(2)医師が患者に致死量の薬物を投与する「積極的安楽死」、(3)患者の苦痛を緩和することで結果的に死期を早める「間接的安楽死」に分けられる。

3つの類型に分けられる安楽死のなかで、積極的安楽死は、厳格な要件を課さなければ、自殺幇助や殺人と区別するのはむずかしい。

そのため、積極的安楽死が法的に認められている国や地域は、オランダや米国オレゴン州など数少ない。

尊厳死

尊厳死」(death with dignity)とは、末期がん等の終末期にある患者が自発的に延命措置を拒否して、人間としての尊厳を守りつつ、自然のままに死ぬことである。

尊厳死においても、安楽死の場合と同じように、患者本人の(事前の)意思のあることが大前提となる。

したがって、医師が勝手に患者を楽に死なせてあげようと本人の意思確認を怠って、〝患者のためを思って〟薬物を投与すると、日本や西洋(の多く)では自殺幇助もしくは殺人として罰せられることになる。

なお、尊厳死と消極的安楽死を同一に捉える見方もある。

死ぬ権利(死の自己決定権)

安楽死と尊厳死に共通しているのは、〝最後まで人間らしく生き、また人間らしく尊厳をもって死ぬ〟というあり方である。

このあり方を可能にしているのは、「死ぬ権利」(死の自己決定権)と呼ばれる概念である。

「死ぬ権利」は、「自己決定権」(他人に迷惑をかけない限り、あるいは他人の権利を侵害しない限り、たとえ本人にとって結果的に不利益がもたらされようとも、自分のことを自分で決められる権利)にもとづいている。

言ってみれば、〝人間いずれは死ぬのであるから、自己の責任において死に方を選んでいい権利〟である。

しかし、ここで問題となるのは、本当に本人が切に望んで死を選ぶことができるかどうかということである。

よりよい最期を迎えるための本人の選択であればよいが、治療のための膨大な医療費と、その費用を負担する残りの家族のための選択になるとしたら問題だ。

また、家族が高い医療費や看護の手間を懸念し、「死んでほしい」という気持ちを心のどこかで持ってしまったら、死ぬ権利が〝死ぬ義務〟へと変質してしまいかねない。

このように、死ぬ権利は、患者本人の意思の尊重を可能にする一方で、〝死を迫る〟という危険性をも合わせ持っているのである。

QOL(生命の質、生活の質)

QOLとは何か?

かつて、人間の生命は神聖なものだと考えられ(「生命の尊厳」〈SOL:Sanctity of Life〉)、医療においては、その生命をいかに維持するかということが最優先された。

しかし、医療が発達してくると、結果的に、ただ医療機器の助けによって患者を生かしているだけの延命治療が増えてきた。

こうした状況では、死期が迫り激しい痛みに苦しむ患者であれば、苦痛をただ長引かせるだけになる。

これは、〝よく生きる〟というあり方から、かなり隔てられた状態だ。

ここから、〝人間にとって重要なのは、ただ長く生きたり、たんに生きつづけたりすることではなく、どれだけ充実した人生を送ることができるかだ〟という考え方が生まれた。

これが、「QOL」(Quality of Life)であり、「生命の質」「生活の質」と訳される。

つまり、QOLとは、ある人が〝人間らしさ〟や〝人間らしい生き方〟をどれだけ維持できているかを示す指標あるいは概念のことなのである。

QOLの問題点

QOLについて考える際に気をつけなければならないのは、QOLとは一人ひとりの生き方の選択――〝自分はどのような生を選ぶか〟という本人の価値観――にもとづくものであり、決して他人が判断するものではないということである。

なぜなら、他人がQOLを判断するということは、その患者の生の価値を他人が評価することになるからである。

さらに言えば、他人がQOLを判断することは、生きるに値する人間と生きるに値しない人間とを区別する発想を生み出しかねず、最悪の場合、優れた生を残し、劣った生を排除する「優生思想」に行き着く恐れさえあるからである。

なお、QOLや優生思想の問題は、「人工妊娠中絶」のページで紹介している、人格=〝人間らしさ〟の要件について論じた「パーソン論」と深く関連している。

遺伝子技術

遺伝子検査

遺伝学と遺伝子技術が発達したことによって、遺伝的な要因で発症する病気=遺伝性疾患について、その原因となる遺伝子に異常がないかどうかを検査する「遺伝子検査」が行なえるようになった。

これにより、検査を受けた本人における発症の可能性や、胎児への遺伝の有無がわかるようになり、疾患の早期発見や将来に向けた心と生活の準備が可能となった。

しかし、その一方で、発症可能性を知ったことで不安に陥ったり、中絶を決心したりする問題が生じている。

米国では、遺伝子検査の結果、就職や保険加入を断られるケースも生じた。

また、個人情報である遺伝情報の漏洩や、遺伝情報による差別も懸念される。

遺伝子治療

遺伝病を治療する「遺伝子治療」は、(1)疾患を治療するための遺伝子を組み込んだ細胞を患者の体内へ取り入れる方法と、(2)疾患を子どもへ遺伝させないように生殖細胞の遺伝子を改変する方法とに大別される。

どちらもまだ治療としては実施されていない。

(2)の方法は、先天性の疾患の可能性を未然に除去できるが、〝生命の選別〟や障害者への差別へとつながる恐れが指摘されている。

また、〝遺伝子を操作することは生命を都合よく改変することであり、生命への冒涜である〟という批判もある。

エンハンスメント(増進的介入)

遺伝子治療の技術を応用し、人間に備わるさまざまな能力を増強したり、機能を強化したりする「エンハンスメント」(増進的介入)も現実味を帯びてきている。

たとえば、スポーツ選手が筋力を強化したり、一般人が集中力を向上させたりするといったことを通して、屈強な身体や高い知性を身につけたり、そうした形質を備えた子ども=「デザイナー・ベビー」を得たりするといったことが可能になるという。

エンハンスメントは、人間の可能性を広げるという見方がある一方で、優生思想を助長したり、人間の欲望の歯止めを外してしまったりする恐れがあるとの批判がある。

再生医療

再生医療とは?

再生医療」(regenerative medicine)とは、障害のある組織や臓器を正常な状態へ回復させる治療法のことである。

この再生医療の手段として注目されているのが、「ES細胞」と「iPS細胞」である。

ES細胞

「ES細胞」(embryonic stem cells、胚性幹細胞)とは、あらゆる細胞に分化できる能力=「全能性」と、無限に増殖する能力とを持つ細胞である。

あらゆる細胞へ分化できることから、「万能細胞」と呼ばれることもある。

ES細胞からは、さまざまな組織や臓器をつくることができるため、特定の組織や臓器を作製し、移植に役立てることが期待されている。

ES細胞をつくるには、胚(細胞分裂を始めた卵細胞)が必要である。

胚は、クローン技術を用いてコピーすれば、数多くつくることができる。

しかし、ES細胞は、その胚を破壊しなければつくることができない。

ここには、〝ヒトとなる命を宿した卵細胞を治療のためとはいえ犠牲にしてよいのか?〟という問題がつきまとう。

〝殺人に等しい〟との批判もある。

また、ES細胞を移植した際に拒絶反応が起きるという医療上の問題もある。

このように、ES細胞を再生医療へ応用するには、大きなハードルがある。

iPS細胞

一方、医療技術の発達により、胚ではなく体細胞から、ES細胞のような、いろいろな組織や臓器になれる細胞をつくることができるようになった。

その細胞とは、「iPS細胞」(induced pluripotent stem cell、人工多能性幹細胞)である。

これは、患者から得た皮膚などの体細胞に特定の遺伝子を導入・培養することによって得ることができる。

つまり、患者の体細胞を、まるで細胞の時間を巻き戻すかのように、多能性を持つ状態に〝初期化〟するのである。

2006年8月に京都大学の山中伸弥教授が世界で初めて作製に成功し、2012年にノーベル医学・生理学賞を受賞した。

iPS細胞は、胚を破壊する必要がないうえに、患者本人の体細胞を利用するので、拒絶反応の恐れが低い。

技術的にはむずかしいが、ES細胞にまつわる倫理的・医療的問題はクリアしている。

しかし、別の問題がある。

たとえば、自分の体細胞からスペアの組織や臓器をつくり、老いてくたびれた組織や臓器と入れ替えることができるようになるかもしれない。

一種の〝若返り〟や〝アンチエイジング〟だ。

つまり、「遺伝子技術」で紹介した「エンハンスメント」として利用される可能性があるということだ。

あるいは、体細胞さえあれば多能性幹細胞がつくれるのであるから、男性であれば卵子、女性であれば精子を手に入れることができる。

すると、男性ひとり、あるいは女性ひとりで受精卵をつくることが可能だ。

そうなれば、相手がいなくても、自分の子どもを持つことが可能になるかもしれない。

こうした可能性は、まるで現実感がない架空の未来社会の話のように聞こえるかもしれない。

しかし、技術的には本当に実現するかもしれないのである。

そのときに、私たち人間(人類)は、そうした技術と、そこからもたらされるすべての結果を、責任をもって受け容れることができるのであろうか?

考えておいてよい問題であろう。

医療における人間関係と医療のあり方の変化

パターナリズムからインフォームド・コンセントへ

医療の発達は、医師と患者の関係を変えた。

以前は、医師は父親のように威厳をもって患者を診療・施術し、患者は医師の治療をただ子どものように受け入れるという医療のあり方だった。

こうした父子関係のような上下関係にもとづく医師と患者のあり方を「パターナリズム」(paternalism)と呼ぶ。

しかし、やがて医療への信頼が低下したり、患者の権利が確立されたりしてくると、「患者の自己決定権」が認められるようになってきた。

この権利は、患者が医師や看護師などの医療関係者と対等な立場に立って治療について説明を受け、充分に納得したうえで治療法を選択することに同意する「インフォームド・コンセント」(informed consent、説明と同意)があってはじめて可能となる。

そして、インフォームド・コンセントは、今では街中の医療機関にまで浸透した。

その結果、患者は自分の治療法を医師任せではなく自分で納得して選択できるようになった。

しかし、一方で、医師からの説明に対して適切な判断を下す必要があるため、患者は常に医学的な知識を吸収し、自己研鑽していなければならないという負担が増えた。

とりわけ、今後増加する高齢者にとっては、かなり負担が大きいと言える。

また、安楽死や生殖補助医療において、自己決定権をどこまで認めるかということも問題である。

こうした問題を今後どのように克服していくかが大きな課題となっている。

キュアからケアへ

医療の発達はまた、医師と患者の関係だけでなく、医療そのもののあり方も変えた。

従来の医療において医師の役割は、患者の疾患や傷を治療する「キュア」(cure)に特化していた。

しかし、疾患や傷を診て〝患者(人)を見ない〟無機質な医療は、患者をモノ化し、患者のQOLを低下させた。

その反省から、徐々に患者の世話や配慮を重視する「ケア」(care)が行なわれるようになった。

ケアにおいては、治療=キュアはケアの一部となり、患者の苦痛の緩和や生活の向上、精神的なサポートなどが併行して行なわれる。

そして、ケアを行なうにあたっては、医師を中心に、看護師や理学療法士、作業療法士、メディカルソーシャルワーカー(MSW)などの関係者がチームとして連携することが求められる。

なお、こうしたケアがもっとも重視されるのが、終末期医療の現場である。

末期患者に対して「緩和ケア」を行なう「ホスピス」では、チームによる身体的・精神的ケアは当たり前となっている。

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