環境倫理学

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地球環境問題と環境倫理学

地球環境問題とは?

環境倫理学」(environmental ethics)は「地球環境問題」を対象にする。

では、「地球環境問題」とは何か?

人類は、石炭や石油、天然ガスといった地下資源を利用することによって文明を発展させてきた。

その一方で、利用された資源は廃棄物となった。

廃棄物は、自然界が浄化できる範囲に収まっているうちは問題とならなかった。

しかし、人口の増大や生活水準の向上によって資源の消費量が増えてくると、自然界の浄化作用の限界を超え、地球環境や人間社会に悪影響を及ぼすようになった。

具体的には、地球温暖化、オゾン層破壊、酸性雨、砂漠化、森林減少、生態系破壊による生物多様性の消滅、大気汚染、水質汚濁、土壌汚染などの現象として悪影響は現れた。

つまり、「地球環境問題」とは、人類が資源の消費を増加させ、浄化されない廃棄物が地球規模で増えつづけたことによって引き起こされた悪影響のことである

自然環境への振る舞い方

このように、地球環境問題が人類によって引き起こされたのだとすれば、その解決のためには、〝私たちは自然環境に対してどのように振る舞うべきか?〟という行動の規範が問題とされなければならない

これが、環境倫理学が提唱されるようになった理由である。

それでは、環境倫理学は、地球環境問題の解決へ向けて、何を主張しているのか?

日本に環境倫理学を普及させた研究者の1人である加藤尚武は、その著『環境倫理学のすすめ』の「はじめに」のなかで、「環境倫理学は、三つの主張を掲げている」として、「自然の生存権の問題」「世代間倫理の問題」「地球全体主義」を挙げている。

自然の権利

人間中心主義から自然中心主義へ

環境破壊が明らかになってくるにつれ、環境保護が唱えられるようになった。

しかし、その環境保護とは、〝現在の生活レベルを維持できる範囲での環境保護〟であって、〝生活レベルを落としてさえも実行を優先する環境保護〟では決してなかった。

つまり、それまでの環境保護とは、人間の都合に合わせた「人間中心主義」の環境保護だったのである。

これに対して、人間を自然の一部だと捉え、環境保護のためには人間の生活や活動が制限されることも厭(いと)わないという「自然中心主義」の環境保護が唱えられるようになった

自然中心主義の環境保護においては、まず、自然は「道具的価値」を持つものとしてではなく、「内在的価値」を持つものとして捉えられる。

たとえば、森林であれば、建材や燃料といった資源の宝庫としてではなく、いろいろな生命が育まれ、その生命が共生する尊ばれるべき存在として捉えられるのである。

そのため、自然に「内在的価値」を認める自然中心主義においては、自然が人間にとってどれくらい利用価値があるかという視点は捨てられる。

保全から保存へ

次に、自然中心主義の環境保護においては、自然は「保全」(conservation)ではなく、「保存」(preservation)されるべきものだと捉えられる。

「保全」には、〝人間が利用しやすいように保護する〟という意味が含まれる。

これに対して「保存」には、〝人間の都合には関わりなく、それ自体として保護する〟という意味が含まれる。

そして、環境保護のあり方は、保全から保存へ移行していかなければならないと主張されるのである。

なお、自然中心主義と言った場合の「自然」が何を指すのかについては、人間はもちろん、あらゆる動植物を含む個々の生命だとみなす「生命中心主義」と、個々の生命が有機的に関係した1つの体系=生態系だとみなす「生態系中心主義」とに立場は大別される。

「自然の権利」訴訟

こうした自然中心主義の立場に立って環境保護(自然保護)を進めるうえで唱えられるようになったのが、「自然の権利」(rights of nature)である。(※)

(※)日本へ環境倫理学を紹介した哲学者の1人である加藤尚武が著した『環境倫理学のすすめ』では、「自然の生存権」という表記になっているが、現在では、〝自然界の存在全般に権利を与える〟ことが視野に入っているので、「自然の権利」と表記されるようになった。

これは、人間に人権が与えられているのと同様に、自然にも権利を与え、たとえば破壊されていく森林や絶滅へと追いやられる生物種が、みずからの「権利」(生存権)を行使できるようにすることが目的であった

もっとも、森林や生物種自身が訴訟を起こすことはできないので、実際には環境保護団体などが代わりに訴えを起こす。

自然の権利にもとづく訴訟は、米国のミネラルキング渓谷にリゾート施設を建設しようとしたウォルト・ディズニー社に対する開発許可の無効を訴えて、シエラ・クラブなどの環境保護団体がロジャース・モートン内務長官を訴えた「シエラ・クラブ対モートン事件」(1965年に提訴)を皮切りに、世界各国で起こされるようになった。

日本では、1995年2月に鹿児島地方裁判所へ提訴された「奄美自然の権利訴訟」(アマミノクロウサギ訴訟)が最初で、その後は「オオヒシクイ自然の権利訴訟」(1995年12月に水戸地裁へ提訴)「大雪山のナキウサギ裁判」(1996年8月に札幌地裁へ提訴)などがある。

なお、米国では、原告勝訴の判決がいくつも出ている。

また、勝訴判決にはいたらなくとも、訴訟を起こしたことで開発が中止になる例は増えており、日本も例外ではない。

世代間倫理

世代間倫理とは?

私たちは、資源をエネルギーや生活必需品などに変えながら生きている。

しかし、その資源は有限であり、このまま消費しつづければ、やがては未来世代のための資源は枯渇する。

それをわかっていながら、あるいは見て見ぬふりをしながら、私たち現在世代が資源を消費しつづけるのは身勝手である。

そのため、現在世代は、未来世代の生存を保証する責任と義務を負っており、未来世代が不利益を被らないようにしなければならない――

こうした考え方を「世代間倫理」(intergenerational ethics)という。

未来世代への義務

世代間倫理が問題とされるのは、石油や天然ガスなどの資源の枯渇に限られない。

たとえば、原子力発電においては放射性廃棄物を処理しなければならないが、現在のところ放射性廃棄物を無害化することは不可能で、地中に埋めるなどしたあと、何万年も経なければ無害化することはできない。

そのため、現在世代の利益のために原子力発電を続けることは未来世代に大きな負債を負わせることだと考える人びとは少なくなく、〝原子力発電の割合を減らす〟〝再生可能エネルギーへの変換を進める〟といった選択が議論されている。

こうした世代間倫理における義務を主張する人びとは、親が子に対して一方的な義務を負うのと同じことだとみなしている。

世代間倫理への批判

こうした世代間倫理の考え方には批判がある。

まず、未来世代は誰を指すのかという批判である。

子どもたち世代か、それとも100年後、あるいは200年後の人類なのかというものである。

また、まだ姿形もなく、ニーズが不明確な未来世代に対して、どのような義務を果たすのかという批判もある。

さらには、そもそもまだ存在さえしていない未来世代に対する義務など成り立たないとする批判もある。

このように、まだ存在しない未来世代の人びとを考慮に入れなければならない世代間倫理は、現存する現在世代の人びとだけを考慮すればいい従来の倫理学にくらべ、〝非対称的〟〝非相互的〟である。

では、非相互的で一方的な関係にある未来世代への責任や義務の根拠については、どのように考えればいいのか?

ドイツの哲学者ハンス・ヨナス(1903/5/10-1993/2/5)による「未来倫理」のような概念は提起されたものの、そうした根拠づけが課題となっている。

地球全体主義

地球全体主義とは?

近現代社会において、人びとや企業、国家は、それぞれの利益を自由に追求してきた。

しかし、その自由は環境破壊を招き、私たち自身の生存を危うくしつつある。

地球は閉じた体系であり、利用できる資源やエネルギーには限りがある。

だとすれば、私たち自身が生産と消費を制限し、地球全体の利益を守らなければならない――

こう考えるのが、「地球全体主義」(earth totalitarianism、地球有限主義)である。

「宇宙船地球号」と「ガイア仮説」

地球全体主義の先駆として位置づけられるのが、「宇宙船地球号」の概念と「ガイア仮説」(ガイア理論)である。

「宇宙船地球号」という言葉は、米国の思想家・建築家であったリチャード・バックミンスター・フラー(Richard Buckminster Fuller、1895-1983)の著書『宇宙船地球号操縦マニュアル』によって広まった。

フラーは、1963年に著したこの著作のなかで、人類と地球の存続のためには、有限な資源を消費しつづけるべきではなく、太陽や風力、水力といった自然エネルギーだけで生活できるように政治と経済のシステムを変える必要があると説いた。

また、米国の経済学者ケネス・エワート・ボールディング(Kenneth Ewart Boulding、1910-1993)は、1966年に公表した論文「来たるべき宇宙船地球号の経済学」(『リーディングス環境 第1巻 自然と人間』に所収)において、人類は無限の資源を想定した従来の「開かれた経済」から、地球は一隻の宇宙船にすぎないという認識のもと、循環する生態系やシステムに見合った「閉じた経済」へと移行しなければならないと説いた。

一方、「ガイア仮説」(ガイア理論)は、イギリスの科学者ジェームズ・ラブロック(James Lovelock、1919-)によって1960年代に唱えられた。

これは、〝地球は一つの生命体のように自己調節システムを備えている〟とする見方である。

そのため、ガイア仮説に従えば、人間が地球に働きかける場合は、生命圏や大気圏、海洋、土壌といった地球全体を視野に入れるべきことになる。

なお、ガイア仮説は、〝地球は動物や植物のような生命体である〟〝地球は意識を持っている〟と主張するのでは決してない。

ラブロック本人も断言しているように、あくまでもメタファー(たとえ)である。

地球全体主義の課題

地球全体主義は、その名のとおり、地球全体の利益を最優先に考え、利益の配分や資源の確保、廃棄物の処理を集中管理する地球規模のシステムを構築することまで視野に入れる。

そのため、個人の自由や利益は、どうしても制限される傾向にある。

この傾向が強まると、環境保護の名のもとに経済的自由や生活が制限されかねない。

つまり、環境保護のための全体主義=「エコファシズム」が生じる恐れがある。

その一方で、さまざまな思惑や事情を抱える世界各国が、環境保護のためとはいえ、本当に足並みを揃えることができるのかという疑問が湧く。

無理にまとめようとすると、離反国が相次ぐ可能性があろう。

また、地球規模のシステムを構築するにしても、誰がどの程度の権限を持ち、どうやって統制するのかという課題がある。

あるいは、そうした全体主義的なシステムを構築しなくてもよい解決法が検討されてもよいであろう。

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