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〝この私もオウム真理教に入っていたかもしれない〟
前の記事で『自分と向き合う「知」の方法』を紹介した。

その本のなかで紹介されていた「生命学」に興味をもったぼくは、その後さらに、同じ森岡正博氏による『宗教なき時代を生きるために』を読んだ。
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「生命学」とは、「対象を研究するときに、研究している自分自身をけっして棚に上げない知の方法のこと」(「二〇一九年のあとがき」)である。
森岡正博氏によれば、本書『宗教なき時代を生きるために』は、その生命学を自分自身で実践した著作の第1作目に当たるそうだ。
ちなみに、森岡正博氏は、本書の他に、『無痛文明論』と『感じない男』を合わせて、「『生命学』三部作」と呼んでいる。
さて、本書『宗教なき時代を生きるために』は、ひと言で言えば、オウム真理教について論じた〝オウム論〟である。
しかし、ただのオウム論ではない。
他のオウム論の多くが〝オウム真理教とは何だったのか?〟を傍観者的に分析するのに対し、本書は「オウム真理教の時代を生きなければならない〈私〉とは何か」(「はじめに」)という問いを追求している。
つまり、オウム真理教事件(1995年3月20日)を起こした信者たちに自分自身を重ね合わせながら考察しているのである。
なぜか?
それは、オウム信者たちと森岡正博氏に共通点があるからだ。
森岡正博氏は、東京大学で物理学を専攻していた。
しかし、自然科学は、自分に「生きる意味」を与えてくれないことに気づく。
そのため、文学部倫理学専攻へ転部。
そのころの森岡正博氏は、超能力や神秘体験や悟りに大きな関心を寄せていたという(以下、「第二章 神秘体験とは何か」)。
- 「この世界を動かしている未知の力や法則についてはっきりと知りたいという知的欲求があった」
- 「当時私が置かれていた閉塞した状況を突き破って、自分自身のあり方を変えてみたかった」
- 「何か大きなものによって、この私が包みとられたい。そしてその抱擁のなかで、その大きなものと一体になってこころを休め、自分をその大きなもののなかへと消してゆき、そこでやすらぎと癒しとを得たい」
- 「私がどうしてこの世に生まれてきたのか(中略)私が死んだらどうなるのか知りたかった」
- 「この世界の真実の姿をどうしても認識してみたかった」
- 「いまよりも、もっともっと力がほしい。あふれるような力を身につけることによって、いまよりもずっと巨大な存在になりたい。大きな大きな存在になって、世界を見下ろしてみたい」
やがて森岡正博氏は、自分自身で神秘体験を得るとともに、参加した気功のグループで〝超能力〟を目の当たりにすることになる。
そして、オウム教祖の麻原彰晃(あさはら・しょうこう)が〝空中浮遊〟した写真が掲載された本に興味を抱き、手に取りもした。
一方、オウムの幹部信者のなかには、科学者になる夢を捨てて入信した者が少なからずいた。
なぜなら、自然科学が「生きる意味」に答えを与えてくれないことに失望したからである。
信者たちは、悟りと超能力にあこがれ、それを手に入れようとした。
当初、彼らは、〝汚れた世界〟を根本から変えて、幸福な理想世界を築こうと考えていたようである。
しかし、麻原を「グル」(尊敬すべき指導者)と仰ぎ、閉じた共同体を形成していくなかで、自分たちにとって不都合な真実に「目隠し」をし、〝私たちだけが正しい〟という観念に陥っていく。
その間、あとで明らかになったように、多数の殺人や殺人未遂を行なっていたのだ。
そして、最終的には、死者13人、負傷者5800人以上もの被害をもたらす「地下鉄サリン事件」を起こしてしまう。
森岡正博氏は、事件を起こした教団幹部たちが自分と同年代であり、「生きる意味」に同じように悩み、似たような経歴を経ていることを知り、衝撃を受けたという。
そして、〝この私もオウム真理教に入っていたかもしれない〟と直感する。
だから、本当にやらなければいけないのは、〝オウム真理教とは何だったのか〟について客観的に分析することより、〝私もオウム真理教の信者としてサリンを撒いていたかもしれないという地点から、ではその私はどのように生きればいいのか?〟を考えることだ――との思いにいたるのだ。
オウムの実行犯たちは、「生きる意味」を求めて、宗教に救いを求めた。
しかし、森岡正博氏は、同じように「生きる意味」を求めつつも、宗教を信じることができなかった。
その結果、科学でも宗教でもない、第3の道=生命学を歩むことになったのである。
自分の目と頭で考え抜こうとする「勇気」をもつ
森岡正博氏は、生命学の道を歩んでいくためには、「自分の目と頭でとことんまで考える」ことがもっとも重要だと言う。
しかし、「自分の目と頭でとことんまで考える」のは「孤独」な作業である。
とてもつらい。
そのため、人は、そのつらさを避けようとして、罠(わな)に陥りやすくなるという。
森岡正博氏は、本書『宗教なき時代を生きるために』の第3章で、1992年(平成4年)4月に26歳の若さで亡くなったロック歌手・尾崎豊を取り上げているが、尾崎とオウム(の麻原)は、癒しや救済のための「共同体」をつくった点で共通していると分析し、次のように指摘する――
それは、とても気持ちのよい空間である。カリスマの姿だけが見える閉ざされた空間の中で、カリスマの発することばとエネルギーにのみ集中し、カリスマに考えてもらい、カリスマに歌ってもらう。自分はただ聞いているだけ。カリスマの発するものに全身をゆだねて、その麻薬のような味に我を忘れ、蜜のような快楽を骨の髄までむさぼりつくす。この気持ちよい世界に、いつまでも、いつまでも浸っていたい。もっとことばを。もっとエネルギーを。もっと甘い蜜を。
「第三章 癒しと救済の罠」
そういう人々の欲求に応えるために、修行ステージのヒエラルキーを作って組織的に対応したのがオウム真理教であり、それらの欲求をひとりだけで直接受け止めようとして身を滅ぼしたのが尾崎である。
また、「生きる意味」を追い求めるなかで、「あるべき自分」と「いまここにいる現実の自分」の乖離(かいり)が生じると、後者を「見たくない自分」として「目隠し」し、それに自分でも気づかなくさせてしまうメカニズムが働くのだという。
森岡正博氏は、そのように指摘し、こうした罠に陥らないためには、孤独に耐えながらも、自分の目と頭で考え抜こうとする「勇気」をもつことが大切だと強調する。
そして、その「勇気」を持ち続けるためには、「ささえあいのネットワーク」が必要だと訴える。
科学によっては生きる意味は解明できない。しかし、信仰の道に入ることもまたできない。科学と宗教のあいだで揺れ動きながら、どちらに属することもできず、かといって、この現実社会に埋もれて、生きる意味を忘却して日々おもしろおかしく過ごすこともできない。そういう人たちが、自分の目と頭と身体とことばを使って自分自身の生の意味を追い求める、そういう人々同士のささえあいのネットワークが必要なのではないか。
「第四章 私が私であるための勇気」
自分のなかにもあった「目隠し構造」
『自分と向き合う「知」の方法』を紹介した記事のなかで書いたように、ぼくは、〈研究対象のなかに自分を置いてはいけない研究って、いったい誰のための研究なのか?〉という疑問をもち、その〝答え〟を生命学のなかに見出した。

本書『宗教なき時代を生きるために』は、著者・森岡正博氏が提唱する生命学を著者自身で実践した著作で、対象のなかに自分をどっぷりと入れて考えている。
だから、森岡正博氏のメッセージはビシバシと伝わってくるのだが、なかにはズシーンと重たいメッセージもある。
たとえば――
フェミニズムというものに最初に接した男性は、フェミニズムの主張を次のように理解するだろう。すなわち、「いままでは男性が女性を支配することによって社会が運営されていた。しかし、これからは、男性と女性が真に対等で平等な関係を保てるような社会に、変わらなければならない。そういう社会を求めて行動しているのがフェミニズムである」。
「第四章 私が私であるための勇気」
(中略)
しかし大事なのは、この「 」のなかの主張が、フェミニズムの主張のすべてではないということだ。この「 」のなかの言明では、フェミニズムの主張の半分しか表現されていない。(中略)
では、この言明の裏に隠されている、フェミニズムの残りの半分の主張とはいったい何か。それは、「 」のなかのことを理解したそのあなた自身が、いまこの瞬間から、自分の身のまわりの女たちに対して、どのように関わっていくつもりなのかということなのである。そしてこの点が、男性たちにもっとも伝わりにくいのだ。なぜかと言うと、それこそが、男性たちがもっとも〈直面したくない〉メッセージだからである。だから、男に伝わりにくいのだ。
この箇所を読んだときは、後頭部を鈍器で思いきり殴られたくらいの破壊的な衝撃があった。
なぜなら、自分はフェミニズムを理解していて、他の男たちにくらべてフェミニストだと自負していたが、理解したとおりにふるまっていない自分を発見してしまったからである。
これぞ「見たくない自分」なのだ。
自分のなかにも、しっかりと「目隠し構造」があったというわけである。
このようにして、森岡正博氏は本書『宗教なき時代を生きるために』〓のなかで、「いまここで一回限りの生と死を生きているこの私が、その全存在を賭けて、世界のあり方と、生きることの意味を、自分自身の頭とことばで考え抜いていく」営みをつづっている。
そして、その営みこそが「哲学」なのだと、森岡正博氏は言うのである。
自分を巻き込む哲学的思考を実践する生命学や、オウム真理教事件に関心がある人にオススメの書である。