『世界は善に満ちている――トマス・アクィナス哲学講義』山本芳久 著

『世界は善に満ちている――トマス・アクィナス哲学講義』山本芳久 著

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これまでにない視点をもったトマス・アクィナス本

大学の教養課程で西洋哲学の歴史を学ぶとき、たいていは、古代から現代へかけて、各時代を代表する哲学者を中心に学んでいく。

古代ならソクラテスプラトン、近世ならデカルト、近代ならカントヘーゲル、現代ならヴィトゲンシュタインハイデガーといったぐあいだ。

しかし、中世となると、ごく簡単な解説だけで済まされたり、ヘタをすると省かれたりする。

学生のほうも、よほどの〝物好き〟でないかぎり、中世哲学には興味を示さない。

だから、「中世の代表的な哲学者の名前を挙げよ」と訊かれても、答えられる人は数少ない。

もちろん、中世にも代表的な哲学者はいる。

もっとも有名なのは、トマス・アクィナスである。

12世紀を過ぎて、イスラム世界から中世ヨーロッパにアリストテレスの哲学が持ち込まれると、キリスト教神学とアリストテレス哲学はどちらがすぐれているかという議論が起きた。

これに対して、神学者・哲学者であったトマス・アクィナスは、理性が及ぶ範囲のことについてはアリストテレス哲学はすぐれているが、神は理性を超えた存在だから哲学では説明できないとして、キリスト教神学は哲学よりすぐれていると結論づけた(「哲学は神学の婢(はしため)」)。

そのため、トマス・アクィナスに関するこれまでの本の大半は、そうした彼の考え方を中心に解説するものであった。

しかし、今回、ぼくが読んだ『世界は善に満ちている――トマス・アクィナス哲学講義』は、そうした従来本とはコンセプトが異なっていた。

著者は、哲学者の山本芳久氏だ。

トマス・アクィナス 肯定の哲学』『トマス・アクィナス 理性と神秘』といった著書があるトマス・アクィナスの専門家である。

その山本芳久氏による本書『世界は善に満ちている ――トマス・アクィナス哲学講義』は、トマス・アクィナスの感情論を中心テーマとしており、これまでにない視点をもっている。

「学生」の質問に「哲学者」が答えるという対話形式で記述されているため、抵抗なく読み進められる。

トマス・アクィナスの感情論とは?

トマス・アクィナスの感情論は、彼の代表作『神学大全』のなかに述べられている。

山本芳久氏によれば、トマス・アクィナスは、あらゆる感情の根底には「愛」があると考えた

「欲求されうるもの」(魅力的なもの、善)が人の心(欲求能力)に働きかけ、その人の心は「欲求されうるもの」を受動的に気に入る。

トマス・アクィナスは、この変化を「愛」と呼んだ。

「愛」といっても、大げさな意味ではないと山本芳久氏は言う。

たとえば、喫茶店で流れていた音楽が耳に残り、店を出てからも、その音楽が心のなかで流れ続ける。

あるいは、街中で目にした車のフォルムに心奪われ、その後、誰かと話していても、その車のことを思い出す。

このとき、音楽を聴いたり、車を見たりする前の自分と、後の自分とでは何かが違っている。

それも一時的な変化ではなく、持続的な影響をもたらす変化である。

トマス・アクィナスは、そのようなものを「愛」と呼んだという。

そうはいっても、人に生じる感情は愛ばかりではない。

恐れや憎しみ、怒り、悲しみといった〝否定的な感情〟も生じる。

それでもトマス・アクィナスは、〝あらゆる感情の底には愛がある〟と考えた。

 たとえば、「恐れ」という感情について考えてみましょう。地震が起こり、津波が発生したという情報が入ってきて、我が家が破壊されてしまうのではないかという「恐れ」を抱くとします。そのとき、私が「恐れ」を抱くのは、我が家を愛しているからですね。または、自分の命が奪われてしまうのではないかという「恐れ」を抱くとしたら、それは、私が私自身の命を愛しているからです。こういった仕方で、私が何かを「愛している」ということが基盤にあって、「恐れる」ということも生じてくるわけです。

「第二章 「愛」はどのように生まれてくるのか」

他の感情についても同じだという。

友人をいじめるヤツに憎しみや怒りを抱くのは、その友人を愛しているから。

友人を亡くして悲しみをおぼえるのは、やはりその友人を今でも愛しているからである。

トマス・アクィナスは、こうした〝愛の根源性〟を明らかにしたあと、人はこの愛の力によって豊かな存在になっていくと唱えた。

つまり、ある人の心に対して、それまでは「欲求されうるもの」として働きかけることがなかったものが、「欲求されうるもの」として働きかけるようになり、それに伴って心が豊かになっていくことが誰にでもあるというのだ。

たとえば、クラシック音楽を聴いても、子どものときには退屈でしかなかったのに、親にコンサートに連れていかれたり、家でCDを聴かされたりしているうちに、音楽や演奏の善し悪しがわかってくるような場合である。

これは、愛することができる対象=「欲求されうるもの」に新たに出会い、それが自分の心のなかに住み始める=「刻印」されるということである。

それまで知らなかった「欲求されうるもの」は、もちろんクラシック音楽だけに限られるものではない。

 たとえば、私の場合、久しぶりに大型書店に足を運んで、様々な分野の棚の前を歩いていれば、目に飛び込んできて心を動かしてくる本が、たいてい何冊もあります。そして、購入した何冊かの本をさっそく読むために、これまでに入ったことのなかった喫茶店に入ってみたら、実に雰囲気がいいし、飲み物の味もいい。流れている音楽もとても好みだけれど、これは一体何という音楽なのだろう……こんな感じで、私の心に訴えかけてくる「善(欲求されうるもの)」は実に多様で多彩でありうるわけですね。

「第十章 世界は『善』に満ちている」

つまり、世界と人間の心は自分が思っているよりもずっと豊かで「善」に満ちているのだとトマス・アクィナスは考えていた――

そう著者の山本芳久氏は言うのである。

自己を愛するとは、世界をも同時に愛すること

ぼくがこれまで抱いていた中世哲学のイメージは、〝キリスト教の神の存在を前提とした世界観や価値観を打ち立てるための壮大な試み〟であった。

しかし、本書『世界は善に満ちている――トマス・アクィナス哲学講義』を読むと、中世哲学はそれだけにはとどまらないということがわかる。

トマス・アクィナスは、「感情には明確な論理がある」という考えのもと、人間の日常的な感情のメカニズムを実によく描き出しているからだ。

しかも、「愛」を重視するキリスト教の信仰をベースにして描き出しているのではなく、徹底的に理性の立場に立って描き出しているため、きわめて説得的である。

その結果、「世界と人間の心は自分が思っているよりもずっと豊かで『善』に満ちている」という(著者・山本芳久氏が描き出す)トマス・アクィナスの考えが、心のなかにスッと入ってきたのである。

一方、〝世界には善が満ちている〟はずなのに、何も好きになれず、喜びを感じられない人びとがいるのも事実だ。

トマス・アクィナスの考えを敷衍(ふえん)すれば、何も好きになれないというのは「愛」がそこなわれてしまっている状態である。

また、喜びという感情は何かに対して「愛」を抱くこと自体のなかに生まれるので、「愛」がそこなわれていれば、喜びを感じることもない。

巷(ちまた)には、「自己肯定感」をテーマにした本があり、そこではたいてい「自己」を「肯定」することの大切さが強調されている。

これに対して、本書『世界は善に満ちている――トマス・アクィナス哲学講義』には、次のような記述がある――

哲学者 はい。「自己肯定感」を主題にしている本では、やはり、文字通り、「自己」を「肯定」することの大切さが強調されていることが多いと思うのです。
学生 それではダメなのですか。
哲学者 ダメというわけではありませんが、すべての人間は、この世界と切り離しえない関係性のうちに生きています。そうである以上、自己を愛するということは、自己と切り離しえないこの世界をも同時に肯定し愛するということだと思うのです。「この世界にはろくなものが存在しないし、ろくな出来事も起こらないし、周りも虫の好かない奴ばかりだけれども、自分のことだけはとても好きだ」というようなことはありえないように思います。

「第十章 世界は『善』に満ちている」

「自己肯定感」は、「自己」にこだわるよりもむしろ、まだ自分では気づいていない、世界に遍在する「欲求されうるもの」に気づいていくことによって得られる――

著者の山本芳久氏によれば、トマス・アクィナスは、現代人に対して、そう訴えていることになる。

〝好きなことがない〟〝自信がない〟〝どう生きていいかわからない〟……

そう感じる人に、本書『世界は善に満ちている――トマス・アクィナス哲学講義』は、肯定的に生きるためのヒントを与えてくれるはずだ。

『世界は善に満ちている――トマス・アクィナス哲学講義』山本芳久 著

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