ページ内にはアフィリエイトを利用したリンクが含まれています。
ソクラテスの哲学姿勢を「無知の知」と言うのは誤り
NHK出版から刊行された『哲学史入門Ⅰ』を読んだ。
哲学史の各分野の専門家がインタビューに答える形式で西洋哲学史をたどっていく『哲学史入門』シリーズ全3冊のうちの第1巻である。
『哲学史入門Ⅰ』では、古代ギリシアからルネサンスまでが語られる。
教科書によくある無味乾燥な記述とはまるで異なり、語り手の専門家の好奇心や情熱が文字を通してダイレクトに伝わってくるので、読んでいて興奮する箇所がいくつもあった。
とりわけ、語り手のオリジナルな視点が如実に語られる個所は、目からウロコ的な気づきがあり、とても勉強になった。
その最たる箇所が、古代ギリシア哲学が専門の納富信留(のうとみ・のぶる)氏による、「無知の知」と「不知の自覚」の違いに関する説明である。
「無知の知」と「不知の自覚」は、ソクラテスの哲学姿勢に関する言葉だ。
このサイトのなかでもソクラテスについて書いている記事があるが、「無知の知」のほうをメインに使っている。
しかし、納富信留氏は、ソクラテス哲学の基本姿勢を「無知の知」と言うのは誤りであり、正しくは「不知の自覚」なのだと主張する。
なぜ「無知の知」は誤りなのか?
以下、氏の言葉を引用しながら、ご紹介したい。
※納富信留氏の言葉は、第1章「『哲学の起源』を問う」のなかの「『不知の自覚』からイデア論へ」から引用している。
「知る」と「思う」
まず、納富信留氏は、「無知の知」の2番目の「知」をめぐって、「知る」と「思う」の違いについて説明する。
つまり、「知る」とは、明確な根拠を持って真理を把握しているあり方を指すのに対して、「思う」は曖昧な根拠しかない状態のことを言います。だから答えが正しくても、根拠をきちんと把握してない状態は「思う」なんです。
ところで、ソクラテスの裁判について描いたプラトンの著作『ソクラテスの弁明』のなかには、次のような一節がある――
私のほうは、知らないので、ちょうどそのとおり、知らないと思っている。
これは、ソクラテスが、あるものごとの本質を探究するにあたって、根拠ある知識を得ていない=「知らない」ことを、さまざまな人びとと対話しながら検証している最中だから、「思っている」という言葉を使っているのだという。
これがもしも「知らない」ことを(根拠を持って)「知っている」状態=「無知の知」であるのに、人びとへ「知っているか?」と尋ねるのだとしたら、ソクラテスは自分が完璧に知っているにもかかわらず相手に尋ねていることになる。
「それは相手へのいやがらせかいじめ」以外のなにものでもない。
そうじゃないんですよね。『ソクラテスの弁明』でなぜソクラテスが、次々と人を尋ね歩くかというと、知っているかもしれない相手と一緒に探求するためです。だけど、最終的に二人とも「知らなかった」という認識で終わる。そうやって、自分が「知らない」と思うことを、確認し続けていくことが、ソクラテスの始めた哲学というものです。
なぜ「無知」ではなく「不知」なのか?
これだけであれば、「無知の知」を「無知の自覚」に変更すればいい話だ。
なのに、納富信留氏は、「不知の自覚」と言っている。
なぜ「無知」ではなく「不知」なのか?
プラトンが明確に分けて使っているからです。私の訳し分けでは、「不知(アグノイア)」は、いま説明したように、ただ「知らない」ということですが、「無知(アマティアー)」は、知らないことを自覚しないで、自分は知恵があると思い込んでいる状態のことを言います。
『ソクラテスの弁明』のなかで、ソクラテスは、政治家や詩人や職人らと対話し、自分が「知らない」こと=「不知」を検証していったが、その一方で、対話の相手が「無知」であることを明らかにした。
つまり、ほんとうは知らないのに自分には知恵があると思い込んでいる「無知」な人間は、ソクラテスではなくてソフィストのほうである。
「無知」は、ソクラテスがもっとも恥じているあり方である。
それなのに「無知の自覚」と言うと、〝知らないのに知恵があると思い込んでいることを自覚している〟という意味になるため、ソクラテスの哲学姿勢を表す言葉としては不適切である。
だから「不知の自覚」なのだと納富信留氏は言うのである。
今後は「無知の知」から「不知の自覚」へ
納富信留氏が「無知の知」という言い方に異を唱えたのは、2003年のことである。
この記事を書いているのは2024年だから、20年以上にわたって主張しつづけてきたということになる。
その甲斐あって、2023年に納富信留氏が執筆に加わった高校倫理の教科書で、「無知の知」が撤回され、「不知の自覚」になったという。
西洋哲学の教科書でも、「無知の知」がなくなり、「不知の自覚」が定着する日は近いと言えるだろう。