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「不知の自覚」と「無知の知」の違い
「不知の自覚」とは、知らない問題について「自分は知らない」と認め、相手と対話しながら確かめ続ける姿勢のことだ。「何も学ばない」という意味ではなく、知っていると思い込まずに探究するための出発点である。
一般にはソクラテスの姿勢を「無知の知」と呼ぶことも多い。しかし古代ギリシア哲学の研究者・納富信留氏は、この言い方だと「知らないことを知っている」という矛盾した印象を与えるため、「不知の自覚」と表現するほうが適切だと提案している。これは納富氏による訳語と解釈の整理であり、日常語の「無知」を一律に別の意味へ変更する話ではない。
| 言葉 | 納富氏の説明に沿った意味 | 対話での態度 |
|---|---|---|
| 不知 | まだ知らないと認める | 相手と一緒に確かめる |
| 無知 | 知らないのに知っていると思い込む | 自分の知識を問い直しにくい |
| 不知の自覚 | 自分の「まだ知らない」を自覚する | 問いを続ける |
この違いは、納富氏が参加したNHK出版『哲学史入門Ⅰ』と、納富氏本人への公開インタビューを手がかりに説明する。
「知らない」と「知らないと思う」はどう違う?
納富氏は、十分な根拠をもって真理を把握する「知る」と、根拠を検証している途中の「思う」を区別する。ソクラテスは、自分に確かな知識がない問題について、最初から答えを持っているふりをしない。
プラトンの『ソクラテスの弁明』では、対話相手は知らないことを知っていると思い、ソクラテスは知らないことを知らないと思う、という対照が描かれる。ソクラテスは政治家、詩人、職人などに問いを向け、自分と相手の考えを試した。
つまり大切なのは「知らない」という答えそのものではなく、根拠を確認し、問いを続ける態度である。「答えを知っているのに人へ問いかける」という読み方にすると、この対話の意味を見失ってしまう。
具体例で分かる「不知の自覚」
たとえば「公平なルールとは何か」と聞かれたとする。すぐに「全員に同じ結果を与えることだ」と断言すると、事情が違う人への配慮や、結果と機会のどちらをそろえるべきかという問題を見落とすかもしれない。
そこで「公平の意味をまだ十分に知らない」と認め、相手に理由や反例を尋ねながら考え直す。これが日常でできる「不知の自覚」の一例だ。単なる謙遜ではなく、思い込みを検証する行動が伴う。
納富氏の訳し分けでは、「不知」は知らないと認める状態、「無知」は知らないのに知恵があると思い込む状態を指す。『ソクラテスの弁明』のソクラテスは前者の姿勢から探究を続ける。
「無知の知」は使ってはいけない?
「無知の知」は日本で広く知られた説明語であり、学校や一般向けの解説でも見かける。納富氏はその表現が誤解を招くとして「不知の自覚」を提案しているが、読者が別の説明で「無知の知」に出会ったときも、何を指しているか文脈を確かめればよい。
納富氏本人の公開インタビューでは、高校教科書に両方の言葉が併記されたり、従来の呼び方として注記されたりしていると説明されている。すべての教科書で置き換わったと断定せず、二つの呼び方を見比べるのが正確だ。
よくある質問
「不知の自覚」の読み方は?
「ふちのじかく」と読む。「不知」は、まだ知らないことを意味する。
「不知の自覚」はソクラテス本人の言葉?
ソクラテス本人の著作に残った標語ではない。プラトンの対話篇に描かれたソクラテスの姿勢を、現代の研究者が説明するための表現である。
「不知」と「無知」は日常語でも必ず違う?
必ずしもそうではない。この記事の表は、納富氏が古代ギリシア語を訳し分ける際の整理を示したもので、一般的な日本語のすべての用法を定義するものではない。
もっとソクラテスを学ぶには?
まず『ソクラテスの弁明』を読むと、問いを続ける姿勢が本文から分かる。『ソクラテスの弁明』の翻訳・解説書比較では、初めて読むための一冊と読む順番を紹介している。
まとめ
- 「不知の自覚」は、自分がまだ知らないことを認め、対話しながら確かめる姿勢
- 納富氏は、知らないと認める「不知」と、知っていると思い込む「無知」を訳し分ける
- 「無知の知」という一般的な呼び方も残るため、表現の違いより対話の中身を確かめたい
次に原典へ進むなら『ソクラテスの弁明』、プラトンの思想全体を知るならプラトン入門書と対話篇も参考にしてほしい。
