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いきなり『純粋理性批判』を読もうとしてはいけない!
カントの入門書を読んで、その全体像がわかったら、次はいよいよカント自身の著作にいどんでみよう。
でも、ここで、いきなり『純粋理性批判』を読もうとする人がいるかもしれないが、ちょっと待ってほしい。
たしかに、カントの著作のなかで、その哲学を理解するのにもっとも重要なのは『純粋理性批判』で間違いないのだが、難解きわまりないがゆえに、最初に読むべき著作ではないと、ぼくは思う。
実際、ぼくは大学生のとき、気軽な気持ちで『純粋理性批判』(岩波文庫版)を読み始め、すぐにめまいに襲われた経験がある(汗)
あれは、ほんとうに激しいめまいだった(笑)
ヘタをしたら、〝カントアレルギー〟をわずらっていたかもしれなかった。
せっかく哲学、しかもカントに興味をもった人が同じ〝症状〟をわずらってしまうとしたら、それはあまりにもったいなさすぎる。
だから、『純粋理性批判』、さらに言えば『実践理性批判』『判断力批判』は、カント哲学の基本構造をしっかり身につけてからいどんだほうがよい。
オススメの翻訳書と解説書
『プロレゴメナ』
最初に読むカントの翻訳書は、『プロレゴメナ』がよいだろう。
この著作は、『純粋理性批判』の内容をカント自身が要約したものである。
つまり、カント哲学の核心が凝縮されているということだ。
なぜカントがそんな著作を書いたのかと言えば、『純粋理性批判』が提起した問い――〝形而上学がほんとうに可能かどうか〟――が当時の知識人たちにまるで受け取られず、しかもその内容が誤って受け取られたため、その問いと内容をより簡潔に伝えようとしたからである。
簡潔ゆえに、『純粋理性批判』のボリュームと比較すると、かなりスリムである。
〈簡潔でスリムになったのだから、当然、読みやすくもなっただろう〉
誰しも、そう思うはずだ。
しかし、『純粋理性批判』にくらべれば読みやすくはなっているが、やはり難解である(汗)
『カント哲学の核心』
そこで、その解説書としてオススメなのが、『カント哲学の核心』である。
著者は、前回の記事「カント哲学をはじめて学ぶ人にオススメの入門書」で紹介した『自分で考える勇気』の著者・御子柴善之(みこしば・よしゆき)氏だ。
『プロレゴメナ』に即して、ポイントとなる文章を引用しつつ、ていねいな解説が加えられていて、大いに役立つ。
御子柴善之氏が『プロレゴメナ』をまるまる1冊、講義する授業を受けているかのような感覚で読める。
本書『カント哲学の核心』を片手に『プロレゴメナ』を読んでいけば、入門者であっても、カントの著作を挫折せずに読み通すことができる。
『純粋理性批判』には何が書かれているのか?
西洋哲学は、16世紀以降、ヨーロッパ大陸を中心に、デカルトからライプニッツへと継承された「大陸合理論」と、イギリスを中心に、ロックからヒュームへと継承された「経験論」とが対立していた。
「大陸合理論」は〝理性によってすべてを認識することができる〟と考え、一方の「経験論」は〝人間の知識はすべて経験によってのみ得られるのであり、実体の存在は疑わしい〟と考えた。
しかし、18世紀の哲学者カントは、「大陸合理論」に対しては〝理性ですべてを認識できるとはかぎらない〟と考え、「経験論」に対しては〝認識は対象があるから成り立つのであり、そうである以上、実体は存在する〟と考えた。
そして、こうした批判を経たうえで、カントは、次のように考えた――
実体=「物自体」は存在するが、理性はそのすべてを捉えることはできず、「現象」として現れた側面しか把握できない。しかし、人間の認識の形式は生まれつき共通なため、「現象」については誰もが認識を共有することができる。
こうした認識のあり方を、カントは、「認識が対象に従うのではなく、対象のほうがわれわれの認識に従わなければならない」と表現した。
また、この考え方の転換を「コペルニクス的転回」と呼んでいる。
その結果、自然科学が行なっているような、経験的に認識可能な世界の把握については理性は有効だが、神や魂の不死や自由などについては経験の範囲を超えているため、理性の認識の能力は及ばず、確実な学問にはなりえないと結論づけた。
こうしたカントの考え方が展開されているのが、『純粋理性批判』である。
オススメの翻訳書
『純粋理性批判』は、近代以降の哲学を理解するうえで、読み外せない必読書であるにもかかわらず、難解この上ない。
だから、『純粋理性批判』を読むなら、少しでも読みやすい翻訳を選びたい。
『純粋理性批判』の翻訳は、複数の出版社から刊行されている。
光文社古典新訳文庫版
オススメは、光文社古典新訳文庫版である。
理由は、図書館で他社の翻訳書と読みくらべてみて、「えっ、今のどういう意味?」と、ふたたび前の文章に戻って読み返す回数がいちばん少なかったから(笑)
それは、1つには、原著にはない小見出しがこまめにつけられていて、内容を把握しやすくなっているからである。
もう1つは、もっとも日常的な言葉で書かれているからだ。
たとえば、初版の「序文」のなかの一文で比較してみよう。
まずは、筑摩書房版である――
さらに、確実性と判明性は批判的探求の形式にかかわる二つの点であり、本質的な要求と見なすことができる。人はこの要求を、これほど足元のおぼつかない企てに挑む著者に対して当然突きつけることができる。
意味がまるでわかりません(汗)
一方、光文社古典新訳文庫版では、同じ箇所が次のように訳されている――
また認識の形式について求められるのは、確実さと明瞭さという特性であるが、これは[批判のような]面倒な営みにたずさわろうとする著者に当然求められる本質的な要件というものだろう。
これなら、なんとか意味がわかる。
日本語になっているからである(笑)
筑摩書房版(や他社の翻訳)がわかりにくいのは、なるべく原著に忠実に訳しているからだろう。
そうすることで、原文を推測しやすくしているのだと思う。
誰のために?
研究者のために。
だから、哲学はしたくても、哲学研究者になるつもりはないのであれば、いちばん読みやすい翻訳書を選べばいいと思う。
講談社まんが学術文庫版
〈最初から文字ばっかりはちょっと……〉と腰が引けるのであれば、講談社まんが学術文庫版がオススメだ。
ただし、『純粋理性批判』の内容をそのままマンガにしたわけでは決してない。
というか、そんなのムリである(汗)
そうではなくて、非モテ系男子がアンドロイドの女性と恋に落ちるという物語になっている。
そのなかで、『純粋理性批判』に出てくる「感性」「悟性」「統覚」「物自体」「現象」といったカントの基本概念が簡潔に示されているのだ。
『純粋理性批判』のポイントを伝えるための工夫がよくこらされていると思う。
最後は、少しほろっとするような展開になっている。
オススメの解説書
『純粋理性批判』を実際に読み進めていくのに、副読本として併読すると有益なオススメの解説書を紹介する。
『カント 純粋理性批判』(シリーズ世界の思想)
『カント 純粋理性批判』(シリーズ世界の思想)の著者は、カント研究者の御子柴善之(みこしば・よしゆき)氏である。
すでに紹介しているように、『自分で考える勇気』『カント哲学の核心』といった著作がある。
その御子柴善之氏が『純粋理性批判』の構成に従って、ポイントとなる文章を引用しながら、とてもわかりやすい言葉で解説が進んでいく。
決して研究者向けではなく、「カントの『純粋理性批判』に関心を抱いた人が、その中に入っていき、その中でさまざまに考えてみるための手がかりを提供することだけが本書の目的」(「はじめに」)だ。
まるでどこかのカルチャーセンターで、著者の「『純粋理性批判』を読む」という講座を聴講しているかのような読書感である。
『完全解読 カント『純粋理性批判』』
『完全解読 カント『純粋理性批判』』の著者は、『プラトン入門』『ハイデガー入門』など数多くの著作がある竹田青嗣(たけだ・せいじ)氏だ。
その竹田青嗣氏が、まるでカントになりきって、『純粋理性批判』を、その構成に従いながら、一般読者にもわかるように抄訳したかのような解説書である。
「『純粋理性批判』における哲学的論理の展開を、最後まで明瞭にたどることができる」(「はじめに」)と、竹田青嗣氏は言う。
まさに、その言葉どおりの内容になっていると思う。
なお、本書でもむずかしいと感じたなら、竹田青嗣氏が同じ内容をより簡潔にまとめた『超解読! はじめてのカント『純粋理性批判』』から読んでいくとよい。